開戦必至
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が、参謀総長の川上操六が独断で派兵したため、おし切られるかたちになったのであり、そのようにつねに弱腰の伊藤が、「長の陸軍」といわれるまでに全陸軍を牛耳っている山県、桂、児玉らにははがゆいのだ。日露開戦必至の情勢になったのは、明治三十三年五月の「義和団事件」以来。この事件は祖国を食いものにする、欧米諸国および日本に対しての清国民衆の抵抗運動で、「扶清滅洋」の旗をかかげて北京在駐の各国公使館を焼き打ちにしたが、これ幸いと日本、イギリス、アメリカ、ドイツなど、八カ国が出兵して暴徒を鎮圧。
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一方、日露戦争に日本がロシアと引き分けになったことから、西欧諸国はアジア人に対する恐怖を抱き、それまで大量の移民を輩出する中国人に向けられた黄禍論の矛先が日本に向けられたが、米国も同様であり、「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦争計画を進めることになる。また、日本は戦後にロシア帝国と和解、イギリスやフランスと関係強化に乗り出したことから、利権を侵されることを恐れた米国は日本と対立し、一時は西欧メディアが開戦必至と報じるほどに緊張が高まった。同時に、ドイツ、イギリス、メキシコとの戦争計画も持っており、周辺の大国を潜在的な敵国と判断して外交を行うようになった。
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激怒した大国ロシアが西郷隆盛に指揮をとらせて宣戦布告してくるのでは、と国民の多くは顫えあがったのである。そして、日露開戦必至となるとまたぞろ、この風説がよみがえってきたわけだが、シベリア鉄道を建設しながら東進してくるロシアは、日本人にとってはつねに憎たらしく、かくのごとき脅威をもたらす。現代のソ連の軍事力・政治力に対する日本人感情も、明治のこのころとさして変わっていない。
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近衛は豊田の外相就任を「日米交渉を何とかして成立せしめんとする余の熱意の表れ」としている。仏印南部に兵力を進駐させる案は5月ごろから検討されていたが、仏印の冷淡な対日態度、蘭印との経済交渉の行き詰まり、独ソ開戦必至の報などの要素から陸海軍で南部仏印進駐論が台頭する。仏印の掌握および蘭印に圧力をかけて石油等の資源を手に入れることがその狙いであった。
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