還俗
956 の例文
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といって、この土地で、二人一つ屋根の下にくっつきあっていては、私もさすがにきまりが悪い。あんたも、その年で還俗となると、あまり見ばのいいもんじゃなかろう。
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享保9年、30歳のころ還俗して大坂に移り浄瑠璃作者となった。なぜ還俗して浄瑠璃作者になったのか、その経緯についても不明である。通称を松屋宗輔と称したが、この「松屋」とは大坂に移った際に入った養子先の屋号ではないかという。
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この経文の暗唱が終われば無事黄衣を着ることを許されサンガに入るのである。僧はいつでも還俗することができ、その意思が妨げられることはない。還俗すると決めた場合、まず住職と両親にまずその意思を告げ、さらに法を教わった教師の僧に敬意を示し、花を送る。
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親が巴流の直門だから、出家以前にはこのひとも茶の湯は仕込まれている。何があったか知らないが、そろそろ還俗してもよいのではないか。こういうひとが巴流の長になれば、とかく金銭や権力がらみのごたごたで淀んだ印象のある茶道界に一陣の清涼な風が吹くであろう、というのが哲哉が〈大原のばあさん〉と呼ぶところの大先生のご意見らしい。
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主人の家が断絶して相続者なき場合は、家人奴婢は良民となれた。また僧尼令によれば出家も可能で、還俗後は本色に戻ることが定められた。このため、穢れなどを理由に武士、百姓、町人などと隔絶した一種の身分外身分と言える扱いを受けた江戸時代の被差別民の身分ほど固定されたものではなかった。
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元亀元年、久我通堅の三男として誕生。もとは鹿苑寺の住職であったが武芸を好み、還俗して下津俸庵と称した。
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僧侶や見習い僧らが講堂の板の間で食べたあと、私のような俗人がそこより一段低い板の間で、座卓を囲み残り物をいただく。渋井さんも、還俗したいまは、上座部仏教の世界では俗人の一人である。焼いた川魚、目玉焼き、ヘチマと鶏肉の煮物、豚肉の入った野菜炒め、竹の子のココナッツ・ミルク煮など、品数も量もふんだんにあるおかずを、粘り気のあるカンボジア米にかけて、ゆっくりと食する。
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自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。仏教用語の一つであるが、日本語においては仏教以外の宗教においても一般に用いられている。
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女房の首には大きな傷跡があり、果たして以前殺そうとした少女その人であった。湛慶は因縁の深さに心を打たれ、還俗してその女房と夫婦になったという。なお、公輔の時代から約300年下った平安時代後期の『玉葉』にも筆者である九条兼実が藤原長光から聞いた話としてほぼ同様の話が記されている。
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この和尚も画心のある人だったが、麻谷の描いた画はそれを上回るものであったという。麻谷はその後も絵を描き続け、16歳になると還俗して京都へ上った。寛政9年、20歳のとき、長崎へ游学して方西園・費晴湖に師事し、9年間におよぶ古画臨摸の末、清人直伝の画技を修得する。
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寛正六年十一月、富子は玉のような男児を産んだ。義政の弟、義視が還俗して養嗣子に迎えられて、ちょうど一年目である。義政は進退きわまった。
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もとある寺の僧であった男が、還俗してこの後家と一緒に暮らすようになった。後家にはお吉というひとり娘がいたが、人なみすぐれて美しかったので、男は後家の目を盗んでしきりに言い寄った。
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そして、842年10月に会昌の廃仏がはじまり、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った。なおこの際に強制的に還俗させられており、再度剃髪したのは帰国直前である。当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。
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男子に恵まれず、弟・友親の子と伝えられる友季を養子とするが早世、次いで舜季二男で外孫の春季を友季と改名させ養子に迎え8代当主とし、自らは出家し洪廓・鉄船庵と名乗った。しかし、夭折したため還俗し、堯季と改名したうえで9代当主となった。
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長男・興成は早世していたため、家督は次男・隆頼が継いだ。五男の正頼は初め僧籍にあったが、隆頼の死後還俗してその跡を継いでいる。
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若い頃は河内国の古寺の沙門で、公泰と号したという。のち還俗して叔父の権中納言・重尹の養子となり、文章生に補せられる。後朱雀朝の長久3年勘解由判官に任官すると、式部少丞を経て、後冷泉朝の天喜2年巡爵により従五位下・加賀権守に叙任されるが、同年中に中務権大輔として京官に遷った。
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元来義元は兄氏輝が家督を継いで居るので自分は禅僧となって富士善徳寺に住んで居った。氏輝に子が無かったので二十歳の義元を還俗させて家督を譲った。今川次郎大輔義元である。
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いつの日かかならず還俗し、おれは絵描きとして名を成すつもりなんだ。小さいころから三度の飯より絵を描くのが好きだった。
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これが「破戒悪行」として日本に伝わった可能性もある。同時期に唐に滞在していた円仁も同様に還俗させられている。佐伯有清は、円珍の円載評価については、確執もあり、割り引いて考量する方が適切との見方をしている。
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覚慶は、藤孝と佐渡の必死の働きで、一乗院から遁れ出て、奈良の春日山を越え、近江国に落ち、佐々木入道承禎の館に、身をひそめることができた。すなわち、還俗して十五代足利将軍義昭となったのが、この人物である。義昭が、織田信長によって、将軍となることができたのも、ひとえに、細川藤孝と松井佐渡の力に由った。
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国王裁判所に入れば、弁護士にも検事にも、いや、判事にだって任じられるに違いないんだ。だから還俗して、後生だから、きちんと姉貴と結婚してやってくれよ。疎い近衛兵なりに考え抜いた、精一杯の説得だったのだろう。
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邵陵王蕭綸が江州刺史となると、伏挺を赴任先に連れて行った。蕭綸は文章の解釈を好んだため、伏挺は礼遇を受け、このため還俗した。また蕭綸が郢州刺史となると、伏挺はまた従って夏口に移った。
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その後、薩摩など九州各地を遍歴し、京都に帰り還俗し中江姓に復した。杜澂の篆刻は江戸にも聞こえ、宋紫石の門人董九如や阮西園の招きにあって江戸に赴き、篆刻で生計を立てた。
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宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。その結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し、6代将軍に就任した。この経緯から義教は後世に「籤引き将軍」と呼ばれる。
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元親から何度となく還俗を促されたが応じることはなく、生涯僧として通した。関ヶ原の戦い後の領国没収の際には、一領具足たちに浦戸城下へ集住して徹底抗戦を呼びかけるなど、義にあつい硬骨漢であったとされる。
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存命の男子が無かったため、弟の枢機卿が還俗して家督を継いだ。
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おれァ、あの相撲が好きよ、ほら、捨衣ってやつ、名前がおもしれえじゃねえか。もと坊主だったやつが還俗して相撲取りンなったんで捨衣ってんだよ。出足の早えやつよ、なァ。
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その縁により浅野家の家老となり、1万石を与えられた。家臣になる際には、徳川家康の許しも得た上で、還俗している。和歌山で浅野家に仕えている間、和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を作庭している。
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