赤字必至
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また、ダイヤも国鉄末期の減便によって、幌加内町内でありながら北母子里駅から幌加内駅への日帰り往復が不可能となった。しかし、前述したように、当時の深名線沿線においては北空知バスが運行する深川と多度志を結ぶ路線を除き、バス路線は設定されたことすらほとんどなかったが、これは深名線程度の輸送人員ではバスでも赤字必至とみられたため既存のどのバス事業者も手を出しかねていたと思われる。こうした状況下、JR北海道は1994年12月10日に沿線4自治体の代表者を札幌市内のホテルに招き、「年々利用者数が減少している現状からは、バス輸送が地域に最も適した輸送手段である」として、正式に深名線の廃止とバス転換の提案を行った。
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ほぼ同様な状態にあった、鴨川市天津付近には天津バイパスが山側に整備され、勝浦市興津や同市行川付近などでは興津バイパスが山側に整備されて、国道と生活道路との分離が完了している。現在は測量なども行われ、用地買収等も行われているが、年間予算額が今のところ1億円程度で、総事業費は約150億円であり赤字必至の情勢のため道路工事着工には至っていない。既存区間が、全線二車線化されていることなどから、国側から見れば大きな問題が起きているわけでもないので、優先順位が低いと思われる。
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この工事は日本鉄道建設公団の手により1970年には完成していたものの、折り悪く上茶路炭鉱は1970年2月に閉山となり、石炭輸送が皆無となっていた。また、当時は「赤字83線」のローカル線廃止取組みの最中であり、開業すれば赤字必至のローカル線の引き受けを国鉄が拒否したため、完成した線路が2年間に渡って放置されていた。赤字83線の取組みが頓挫した1972年に、田中角栄内閣が成立して北海道出身の佐々木秀世が運輸大臣に就任した。
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しかし実際には、岡多線と瀬戸線は名古屋市周辺都市をつなぐ環状線としての役割を期待され、両者をまとめた「岡多・瀬戸線」の名称で呼称されていた。「岡多・瀬戸線」は日本鉄道建設公団により、主要幹線として建設が進められていた一方、残る岡多線の多治見方面は未着工のまま、1979年6月に「開通すれば赤字必至である」として運輸省により建設計画が凍結され、1985年10月には事実上頓挫した。
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