親炙する
30 の例文
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何でも構わぬ、一たび破壊しなければとても日本を文明に導くことは出来ぬということであったのである。その方から見れば先生に親炙した人達が見ると、そういう乱暴な行為は不思議であると思うほどである。ところが先生ひとたび意を決して国のため社会のためにこれなりと認めると、如何なる反抗があっても生命を賭して驀進する。
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ところで、その「言文一致」の創始に就いて、山田美妙斎と二葉亭四迷と、この両氏のどちらが早いとかおそいとか一寸本家争ひのやうな事が、それとなしに主張されてゐるが、それは余り重要な事ではない。それよりも私は両氏が各その親炙したヨーロッパ文学の影響が、その表現に就いても働かざるを得なかつた結果だと思つて、その点に深い興味を感じてゐる。元来、文学の芸術に身を委ねるものにとつて、表現のくふうといふ事は、一つの肉体上の要求と見て然るべきものであらう。
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著作は主に書物論、都市論を展開し、2001年出版の『書物について - その形而下学と形而上学』は、藤村記念歴程賞、翌年に読売文学賞と芸術選奨文部科学大臣賞を受賞している。吉田健一に深く親炙し、その著作の文庫解説・全集校訂などを担っている。
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連合いといっても、俗に枕添のことではない。吾人は道庵先生に親炙すること多年、まだ先生に糟糠の妻あることを知らない。よってこの先生が、枕添の有無によって、生活観念に動揺を将来したというべきは有るべきことでない。
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日本の燒物を、支那、朝鮮の如く大ざつぱに語ることは控えたい。それは讀者諸氏が余りに身邊に親炙してゐられるからである。たゞ支那、朝鮮の影響を受けて發達したものであり、それが日本化されて、そこに生命を見付け出されたところのものであることを知ればよい。
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しかし確かに師匠は私のこの国を去るということを知って居られたようですが、実に恐ろしい人です。他にも尊いラマは沢山あるように承りましたけれども、とにかく私の親炙して教えを受け殊に敬服したのはこの方であった。これが師匠のガンデン・チー・リンボチェと私との最終のお訣れであったです。
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小説のことでは伸子も間接に影響をうけている須田猶吉に親炙して、婦人の作家に珍しく装ったところのない作風を認められていた。「わたし、いつもなまけてばかりいてわるいんですけれど、あんまりああいうものは読まないんです」 ウメ子は、ちらりと奥にある小さい金歯をのぞかせながら笑って、美しい上まぶたをつり上げるようにした。
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打身、きり創のような時もその通りだし、心持が親切の上に、手当が上手だし、それに別段金をかけて薬品を買いととのえて置くというわけではないけれど、日頃心がけて、手近な草根木皮をとって、干したり乾かしたりして蓄えて置くものですから、急場の間に合います。これは一つは、与八が道庵先生に親炙している機会に、見よう見まねに習得した賜物と見なければなりません。あの馬鹿みたようなデカ者は、先生もやれる上に、お医者さんも出来る!
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我々にあつて芸術的欲求が根を断つてゐるといふわけではない。そこで、臨床的な話をするならば、先人の作品に、更めて親炙すること唯一つである。さうしてその「様態」に、そのフォルムに迄関心が届くやうにならなければならない。
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ここから、彼は英米系の分析哲学との対質を自覚的に試みている。彼が親炙したのは、どちらかというと非正統的な哲学者であるウィルフリド・セラーズ、特にネルソン・グッドマンであった。この事態には正統的な分析哲学への彼の深い不満が窺える。
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先生は實に語通りに我國の哲學界の元老である。私は久しく田舍ばかりに居たものから、左程先生に親炙する機會もなく、從つて先生について多くのものを語ることもできない。唯、先生の喜壽を祝すると共に、二三の思出を記すに過ぎない。
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しかし、確かに師匠は私のこの国を去るということを知っておられたようですが、実に恐ろしい人です。他にも尊いラーマは沢山あるように承りましたけれども、とにかく私の親炙して教えを受け、殊に敬服したのはこの方であった。これが師匠のガンデン・チー・リンボ・チェと、私との最終のお訣れであったです。
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その私はげにも大馬鹿三太郎であつた。後ではまた慚愧するのだとも思はないでもないのだが、これが私の人に親炙したい気持の満たし方であり又、かくすることによつて私は人に懐き、人を多少とも解するのである。その大馬鹿三太郎を抑制することは今、この医者の友人の長男を可笑しきものとしないためには役立つのであるが、自己表現欲、或ひは又智的好奇心のためには、ただただ害があるのである。
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なにも寺の人は故意にしているわけではありませんけれど、世の常の人が偉人に親炙していると、つい狎れてその偉大を感じないといったように、これだけの山楽を傍に置きながら、山楽とも思わないで、心なき寺の人が、その床を物置に使っているではありませんか。このぶんで行きますと、早晩あの壁は壊れます。
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りんごをかじりながら街頭をあるくよりも、環視の中でメリーゴーラウンドに乗るよりもむしろいい事かもしれないのに、何かしらそれを引き止める心理作用があって私の勇気を沮喪させるのであった。そのためにこの文明の利器に親炙する好機会をみすみす取り逃がしつつ、そんなこだわりなしにおもしろそうに聞いている田舎の人たちをうらやまなければならなかった。このような「薄志弱行」はいつまでも私の生涯に付きまとって絶えず私に「損」をさせている。
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その後大日本連合青年団主事として、昭和初期には農村問題・教育問題の研究会を組織した。右翼の実力者である玄洋社の杉山茂丸に親炙し、志賀直方に兄事した。
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勿論芥川龍之介の文体に就かうと考へた訣ではない。しかし堀辰雄があれほど芥川龍之介の文学に親炙し、最も近しい弟子として出発しながら、見事に芥川の影響を感じさせない文章を書いたといふその点に、私たちは敬服したと言ふことが出来る。影響といふものは無意識のうちに沁み込んで来るのだから、真似をしないことは簡単でも影響を受けないで済ますことは決してた易くはない。
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少しでも芸術的才能を持っている人であったら、たとえあけくれ古人の句中につかっていてもいつしかその個人性を発揮して何人も模倣することをゆるさない自己の新境地をひらき得るのであります。私が「埋字」のことなどを申し上げたのもこの古人の句に親炙する、もっとも卑近な方法の一つを申し上げた次第なのであります。私はどうでもいいからただ十七字を並べてご覧になるがよかろうということをまず一番に申し上げました。
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北畠ドクトルは、よし実名を明にした所で、もう今は知つてゐる人もあるまい。予自身も、本多子爵に親炙して、明治初期の逸事瑣談を聞かせて貰ふやうになつてから、初めてこのドクトルの名を耳にする機会を得た。彼の人物性行は、下の遺書によつても幾分の説明を得るに相違ないが、猶二三、予が仄聞した事実をつけ加へて置けば、ドクトルは当時内科の専門医として有名だつたと共に、演劇改良に関しても或急進的意見を持つてゐた、一種の劇通だつたと云ふ。
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これが長女と結婚した現在の当主内藤誉吉である。内藤家の婿養子となった誉吉は、最初岳父の業を継いだが、学生時代から親炙した文学者がいて、影響を受けた。文芸の道を諦めきれない誉吉は、義父を説得してこの道に入り、遂に大成したのである。
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荷風先生をわが陋屋の同居人として迎える光栄を有したのは昭和廿二年一月七日から翌年十二月廿八日までの約二ヶ年の間であった。年少より秘かに敬愛していた先生に昼夜親炙することを得たのは、僕の生涯の喜びであり、つぶさにその間、僕は先生を観察し、その言行を毎日微細にノートしてきた。大判のノートで四冊にも及ぶその「荷風先生言行録」は、僕にとって古い恋文の如くであり、貴重な文献でもあるが、過去の日記や恋文を焼くという感傷癖のある僕は、秋晴の今日、庭の落葉と共にこの「言行録」も焼却することにした。
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土芳は最も芭蕉に親炙し、芭蕉からも愛されていた。芭蕉没後、元禄十六年頃に、有名な『三冊子』を著わしたが、それは芭蕉の示教をもとにし、なお自己の見解をも付け加えた俳論書である。
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東北学院では山川丙三郎に師事した。東北帝国大学では阿部次郎に親炙し全集の編集に携わった。
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あの訳文を、あれだけに買つて頂けば、訳者として瞑すべきである。たゞ、ルナアルに親炙する僕として、武者小路氏のルナアル観には、一応註釈を附けて置きたい気持がする。
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それにもかかわらず容易に揮毫の求めに応じなかった。殊に短冊へ書くのが大嫌いで、日夕親炙したものの求めにさえ短冊の揮毫は固く拒絶した。何でも短冊は僅か五、六枚ぐらいしか書かなかったろうという評判で、短冊蒐集家の中には鴎外の短冊を懸賞したものもあるが獲られなかった。
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パリで少年時代を過ごしてエミール・ゾラに親炙し、カリフォルニア大学バークレー校を卒業、卒業時に『マクティーグ』の元となる原稿を教授に提出し絶賛される。
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事件の成り行きを妻のファニーに聞いて貰おうと部屋に行くと、彼女はチャールズ・スペクターという男と関係を持っている最中で、サックスは更に打ちのめされてしまう。ディマジオの妻リリアンと懇ろになって、彼が書いたアレグザンター・バークマンに関する論文を読み、その思想信条に親炙したサックスは、ディマジオの思想を受け継ぐ形で自らの計画を実行する決意を固めた。ディマジオはトロツキー主義の影響を強く受けた環境保護活動家だったのだ。
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いや、できるだけ手をさしのべようとはしているのだが、どうしても自分の新しい芸術観に共鳴する門人を接近させてしまう。京の凡兆が、元禄三年入門するや、急速に芭蕉に親炙し、たちまち蕉門の中に頭角をあらわし、去来と並んで『猿蓑』の撰者となったのも、右に述べた事情と無関係ではあるまい。芭蕉は前進する自分について来る新しい門人を愛さずにはいられなかったのであろう。
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