納屋衆
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名詞
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元来、この地は茅渟の浦にのぞんだ漁夫の集落であった。後にこの地の草分けの富商らを納屋衆というのだが、納屋は魚屋である。元来は魚問屋だったのであろう。
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また、納屋衆として10人が訴訟を評定したとする資料もある。これらのことから、36人の会合衆の中でもとりわけ有力な者が10人の納屋衆であるとする向きが多い。堺は摂津の堺荘と和泉の堺南荘に分かれていたが、会合衆が集まる会所それぞれにあった。
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会合衆の数は36人とされるが、文明年間は10人と見える。また、納屋衆として10人が訴訟を評定したとする資料もある。これらのことから、36人の会合衆の中でもとりわけ有力な者が10人の納屋衆であるとする向きが多い。
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若者は、ゆっくりと屏風をまわって、枕元に立つや、夫婦の寝顔を、見下していたが、いきなり、助四郎の枕を蹴とばした。前述したごとく、納屋衆は、ただの商人ではなかった。寝首をかかれる万が一の危機にそなえて、褥の中に、太刀を匿していた。
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街の大木戸には、出迎えの納屋衆を始め、見物の群衆が人山を築いた。信長は、いとも冷静に告げた。
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宿舎は南宗寺であった。堺の納屋衆は遠国東国からの客を迎えて戸惑いがちであった。すでに信長からは、賓客としてもてなすよう、会合衆筆頭の今井宗及宛てに指示書が届いていた。
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信長に至っては自家集権を欲するに際して、納屋衆の崛強を悪み、之を殺して梟首し、以て人民を恐怖せしめざるを得無かったほどであった。いや、其様な後の事を説いて納屋衆の堺に於て如何様の者であったかを云うまでも無く、此物語の時の一昨年延徳三年の事であった。
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泉南にあって海外貿易の最大商権を持ち、諸国大名群に治外法権の輸送権を有する商業都市、堺にとって、信長の目指す既得権打破の進展は、もはや脅威にとどまらず、恐怖と化した観がある。前に背叛の挙に出た松永久秀の企ての裏には、豊富な軍資金の提供を約した堺納屋衆の影があったと思われる。表向きは信長に恭順の意を示しながら、裏では反信長勢力の後押しを続ける堺の意図は、隠れもせぬ事実であった。
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永禄五年といえば、桶狭間のたたかいから二年後のことで、信長は東海の一豪族として美濃の斎藤龍興などと悪戦苦闘している時代で、まだ上洛にはほど遠く、世は刈菰とみだれた戦国のまッただなかだ。宗易はこのとし四十一であったが、堺の豪商、いわゆる納屋衆としてよりも、茶道の大宗匠としてすでに名がきこえていた。彼が信貴山城を訪れたのは、こんど弾正が城内に作った茶室びらきに招かれたのだが、同時に、以前から弾正の垂涎おくあたわなかった平|蜘蛛《ぐ も》の茶釜を贈るためもあった。
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つまり、町の豊かな財力で、地下請の権利を獲得したのである。そのため、堺の町は自治の特権を公認され、町の政治は、納屋衆と呼ばれる十人の年寄衆の合議制で行なわれることになった。納屋衆というのは、海浜に納屋をもち、納屋貸し、つまり納屋を貸しつけることを業とする富商のことである。
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堺の会合衆からの献上であった。室町期、納屋、すなわち海岸に倉庫を有する豪商を、納屋衆と呼んだ。日本の海外貿易の大半を独占する堺では、時の朝廷や幕府に莫大な金品を献上して、「守護不入」の自治権を獲得すると、百数十人の納屋衆の中から豪商三十六名の会合衆と称する合議政体を作って、商権の独立拡大と、傭兵による警護組織、局外中立の隊商派遣など、独自の政治力を発揮した。
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すでに信長からは、賓客としてもてなすよう、会合衆筆頭の今井宗及宛てに指示書が届いていた。しかし、家康本人と納屋衆で面識があるのは、昔より唯一、徳川家と取り引きをしている茶屋四郎次郎だけであった。その日の夕刻、早速、茶屋の屋敷で茶湯の接待を受けた家康は、奥座敷で庭を見ながらくつろいでいた。
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利休は秀吉をただ筑前と呼びすて、秀吉は利休を宗易公と呼ぶやうな関係にあつた。しかも利休は堺の納屋衆の一人であり、自己の財産を投じて大徳寺の山門を造るほどの資力をもつてゐる。また当代の文化人として秀吉の所行を批評しうる眼力をもつてゐる。
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ことの事情をあかされた臙脂屋の老人は、娘のいのち、家の名を救はうとして、木沢左京を訪れて、笛を返してくれるやうにと歎願するが、左京は「いやでござる」の一点ばりでとりつくしまもない。堺納屋衆の威勢をかつて、礼にはそむかないがきついところをみせて威してみても聞入れない。「金銀財宝、何なりと思召す通りに計らひましても」と願つても、臙脂屋の身代を残らず傾けても、と言つてみても「いやでござる」以外の返事はない。
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茶湯者を以て立たうとする意志の表白とみてよい。魚商といつても浜に倉庫をもち、堺の市政に参与する納屋衆の一人である位置を捨てることは容易なことではない。堺の魚問屋がどれほどの勢力をもつてゐたかがわかる話がつたへられてゐるから、余談ながら書きとめておかう。
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永禄年中三好家の堺を領せる時は、三十六人衆と称し、能登屋臙脂屋が其首であった。信長に至っては自家集権を欲するに際して、納屋衆の崛強を悪み、之を殺して梟首し、以て人民を恐怖せしめざるを得無かったほどであった。いや、其様な後の事を説いて納屋衆の堺に於て如何様の者であったかを云うまでも無く、此物語の時の一昨年延徳三年の事であった。
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さういふ勢力をもつたのが堺の魚商であつたのである。納屋衆といふ豪商の長男に生れた与四郎の利休も、茶湯をたしなまざる者は人非人といはれた時代だけに、幼くして茶を学んだに違ひない。十六歳の与四郎主催の朝会が京都にあつて、そこへ松屋久政が招かれたといふ記録の残つてゐるところをみれば、相当の名物をもつてもゐたであらう。
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