納屋町
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名詞
16 の例文
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東は旭町、西は勝川新町、南は神明町、北は稲口町に接する。名古屋納屋町在の妙慶という人物の所有地であったことに由来する。
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現在の中村区名駅南一・二丁目の各一部に相当する。当地が納屋町の裏であることから納屋裏と称していたが、のち転じて菜矢鵜町と称されるようになったという。
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橋が架けられた当時の納屋橋界隈は名古屋城下の南端にあたり、西の烏森と町を結ぶ柳街道が走っていた。名称の由来は、橋の西側に魚屋、または納屋が多くあり、そこからつけられた地名の納屋町から採られたという説と、橋の南東に尾張藩の米蔵が多くあったことからつけられたとする説の2つがある。
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名古屋市中村区名駅・名駅南と中区錦・栄とを結んでいる。納屋橋の名の由来については、堀川右岸の倉庫街である納屋町に架けられた橋であるので納屋橋と呼んだとする説と、尾張藩の米蔵がこの付近にあったことに由来するとする説がある。納屋橋は1989年11月1日付で名古屋市都市景観重要建築物等に指定された。
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海岸沿いに鹿児島と重富を結ぶ現在の国道10号となる道は明治天皇行幸に際して1872年から開削が始まり、1873年9月に開通したもので、それまでは吉田の山の上を通って難所の白銀坂を下るか、ずっと北の方を迂回する必要があった。このことから鹿児島との間の移動は加治木や帖佐の納屋町、重富の脇元などからの船便を利用するのが一般的であった。鉄道と同様に、市南部を横断するように九州自動車道および隼人道路が通っている。
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この場所では地元の年貢を集め、様々な物産を離合集散する拠点となり、さらに鹿児島を中心に山川、指宿、谷山、垂水、福山などへの物流拠点ともなっていた。現在、九州自動車道が別府川を横断する場所より少し上流側が、納屋町船と呼ばれる物資輸送船の発着場であった。納屋町船は「帖佐で名所は米山薬師、前は白帆の走り船」とうたわれる帖佐の象徴であった。
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その後も継続的に改修工事が実施されている。姶良市鍋倉地区・納屋町地区は、1595年12月に島津義弘が館をこの地に置いてから城下町として発展し、帖佐郷の中心地区となっていた。この場所では地元の年貢を集め、様々な物産を離合集散する拠点となり、さらに鹿児島を中心に山川、指宿、谷山、垂水、福山などへの物流拠点ともなっていた。
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現在、九州自動車道が別府川を横断する場所より少し上流側が、納屋町船と呼ばれる物資輸送船の発着場であった。納屋町船は「帖佐で名所は米山薬師、前は白帆の走り船」とうたわれる帖佐の象徴であった。帖佐側からは竹、かます、筵、穀物、木材、木炭、帖佐人形などを出荷し、鹿児島側からは砂糖、肥料、素麺などを運んでいた。
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山田郷の野町は西田野町で下名の集落から山田川を渡って南側にあった。帖佐郷の野町は納屋町で、鍋倉地区の別府川沿いにあった。帖佐の野町は薩摩藩では国分の野町に続いて2番目の規模であったとされ、蒲生の野町は8番目とされている。
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祐竹新田に由来する。祐竹新田は、1698年に開発が開始された新田であるが度重なる破堤により、赤塚町嘉兵衛、納屋町庄蔵の手を経て、戸部下新田と改称された。
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蒲生の野町は蒲生麓の外れにあった。浦浜としては、帖佐郷の松原浦、重富郷の脇元浦、半浦としては納屋町と十日町があった。
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後に材木の立売りが許されるようになったので漢字のみ「立売堀」と改められた、とのことである。江戸時代の町名は三右衛門町・中橋町・船坂町・薩摩堀中筋町・薩摩堀東之町・納屋町・百間町・吉田町・西国町・立売堀一から四丁目・孫左衛門町・助右衛門町・立売堀中之町・立売堀西之町となっていた。
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納屋町は、愛知県名古屋市中村区の地名。当地には魚問屋4人が営んでおり、魚を入れておく小屋を指す「納屋掛」の名前に由来する。
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名古屋市中区西端部の堀川左岸に位置していた。東は上園町1丁目・和泉町1丁目・皆戸町1・2丁目・車町1丁目・西方町1丁目・材木町1丁目・伝馬町1丁目・袋町1丁目・本重町1丁目・竪三蔵町1丁目、西は西区塩町4丁目・大船町1〜4丁目・船入町1〜4丁目、南は納屋町1丁目・広小路通1丁目、北は南外堀町1丁目に接していた。近代における木挽町の町域は江戸時代の木挽町のみならず、下木材町・元木材町・葭町・両蔵屋敷の計5町を併せた区域となっているため、これも含めて解説する。
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納屋町は、日本の地名。