築山館

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  • 館のすぐ北側には別邸として築山館が築かれており、大内氏館は住居として、築山館は迎賓館的な役割の場として使われていたと思われる。 ...
  • 輝弘は守護所山口の大内氏別邸築山館には入ることはできたものの、山間の城までは完全に占領することができなかった。 ...
  • しかし弘護は、1482年5月27日に山口の築山館で開かれていた酒宴の席で吉見信頼に刺殺された。 ...
  • 興明が6歳の頃、文明14年5月に父弘護が山口の築山館で石見国人吉見信頼に殺害される。 ...
  • 文明14年5月27日、政弘が山口の築山館で酒宴を開いた際、その席上で弘護を殺害した。 ...
  • 同文明14年、帰国した政弘が諸将の慰労のために開いた山口の築山館で開いた宴席の席上で、弘護は長年敵対関係にあった吉見信頼に刺されて死亡。 ...
  • 加えて10月11日、大内輝弘が大内家再興を目指して周防国山口へ攻め込み、築山館跡を占領する事態が発生する。 ...
  • 陶隆房の侵攻を知った義隆は大内氏館・築山館を出て、多少でも防戦に有利な山麓の法泉寺に退いて防備を固めたが、法泉寺の義隆軍は逃亡兵が相次いだことから、義隆は山口を放棄して長門国に逃亡。 ...
  • その直後の5月27日、主君・大内政弘が山口の築山館で開催した酒宴の席上で兄信頼が陶弘護を殺害、その場で内藤弘矩に粛清される騒動が起きる。 ...
  • 同年から毛利氏の防長経略が始まると、大内氏本拠である大内氏館・築山館に隣接する姫山城に籠城したが、大内義長が山口を放棄すると毛利氏に従属した。 ...
  • 陶隆房の侵攻を伝える注進が届くと、義隆は大内氏館・築山館を出て、多少でも防戦に有利な山麓の法泉寺に退き、本堂に本陣を置いて嶽の観音堂・求聞寺山などを冷泉隆豊らが固めた。 ...
  • また、「祇園菜香亭」跡地は国の史跡「大内氏遺跡」の「築山館跡」の範囲に含まれており、移築後の発掘調査によって、料亭の井戸があったあたりから築山館の付属建物とおもわれる柱跡が検出され、大内政弘・義興の時代の15世紀後半の土師器や瓦質土器のすり鉢、足鍋のほか、軒平瓦や軒丸瓦などが出土している。 ...
  • 大内輝弘は龍福寺と築山館を本営とし、同年10月17日に就昌は蔵田就貞、渡辺長の子・渡辺元らと共に築山館の大内輝弘軍と後河原において戦った。 ...
  • 鴻ノ峰の南方には、大内氏の居館である大内氏館と築山館があり、そして周囲の山々にも兄弟山城、障子ヶ岳城、古城ヶ岳城、七尾山城、姫山城等の大内氏の主要拠点が点在する。 ...
  • 続いて、三河内次郎右衛門尉、波多野備後守、二宮弥四郎などを斬り、輝弘軍は龍福寺と築山館を本営として毛利勢の籠もる高嶺城攻略を開始。 ...