築山殿
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名詞
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素性は今川義元の妹婿であった関口刑部少輔の孫である。徳川家康の妻となった築山殿は彼の叔母にあたるから非常な名門である。
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つまり家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということである。また、信康処断の理由は「逆心」であり、家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。
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世良田元信を松平元康と改名した人物は、いまはこの世になき岡崎城主松平元康の正妻築山殿を形式上の妻とした。築山殿こそ、亡夫松平元康暗殺の秘密の鍵を握っている唯一の女性だった。したがって、かの女が、後に甲斐の武田氏と内通し、武田の助力を得て、松平元康を徳川家康と改めた人物を亡きものにし、わが子信康をもってこれに代わらせようとたくらんだのも、当然のことといえる。
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その元の字を排したのは、すなわち今川家の羈絆を脱し、名実共に敵対の意思表示をしたことであった。名家今川の一族をもって任ずる築山殿を、強く刺激せずにはおかなかった。後世築山殿は悪妻の見本のようにいわれるが、すくなくともその原因を作ったのは家康である。
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しかも信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。それにも関わらず家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解である。また酒井忠次は、その後も徳川家の重臣上位の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっている。
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武田勝頼は乱に介入し景勝と同盟を結び両者の和睦を調停するが、景勝が乱を制し景虎を滅ぼしたことにより景虎を支持していた北条氏との甲相同盟は破綻し、翌天正7年9月には北条・徳川間で対武田の同盟が結ばれている。この時期、家康は嫡男・松平信康とその生母である築山殿を処刑している。天正10年、信長・家康の連合軍は武田領への本格的侵攻を行い、武田氏を滅ぼした。
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秀吉と反対に、家康は下淫のチャンピオンだ。正妻築山殿をのぞいては、彼の愛した女共は一人として上流階級の出身者はない。皆下層民の出身だ。
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お万は若くお転婆で、現代のつっぱり娘に相当する。そんな女に見返られて、築山殿も耐えられなかったのであろう。家康もお万の産んだ子に疑いを持った。
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今川家が滅び、家康が三河を平定、遠江を征服して二国を治める大守になった後も、築山殿の家門を鼻にかけた気位の高さと我儘、それに嫉妬深さはなおらなかった。お勝は、お福を一目見たとき、その築山殿のことが頭をかすめたのだった。築山殿は、お勝が二歳の天正七年に死去している。
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これは父祖以来の外交政策を変えるものだし、当時の情勢ではまだまだ危険度は高かった。それに、今川氏のもとには妻の築山殿、嫡男信康をおいたままである。家来のうちにも、妻子を駿府において来た者が多い。
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夫婦の間というものは、肉親愛とちがって、反射し合う度が強いので、ひびが入るとどうにもならなくなることが多いものです。築山殿のヒステリーは息子である信康夫婦のなかのよさまで嫉妬するようになりました。信康の妻は織田信長の女徳姫です。
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築山殿を怨む徳姫は、すぐさま父信長のもとへ、つぎの通り書き送った。一、築山殿は悪人で、信康へ讒言して、私との仲を不和にした。
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また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていてそのような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は窺えないし、事件の発端となったとされる徳姫に対して徳川政権成立後に家康が二千石の領地を与えている理由も通説では説明できない。さらに築山殿がいかに家康の正室といえども武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問である。しかも信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。
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家康の最初の寵妾があらわれたのである。事もあろうに築山殿の侍女お万に、湯殿で手を出して孕ませた。
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どうもこれが正しいようだ。築山殿が鞭打ったとするのは、彼女の嫉妬深いことをいうための作り話であろう。元亀元年、家康は岡崎城を信康に与え、自分は居城を浜松城へ進めた。
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この書によれば、岡崎ではなくて浜松城へ移ってからの事件である。怒ったのは築山殿ではなく、家康自身だとする。お万が何かで家康をひどく怒らせた。
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お都摩は家康にともなわれて浜松城へゆき、側室となって下山殿と名乗った。正妻築山殿をのぞき、側室で殿の字のつくのはこの人だけである。表向はそのまま武田松姫で通したからである。
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