築山古墳
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名詞
36 の例文
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暗がりに目がなじむにつれて、そこにある石棺がはっきりと見えてきた。いま築山古墳内にあるのはその石棺だけで、ほかの出土品は、私はみることができなかった。
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例によって=の下は出土品であるが、松江市や八束郡のほうはおいて、出雲市のそれだけは実地に見てみたかったからである。もっとも、このうち、上塩冶町の築山古墳のほうは、私はさきに来たときたずねてみていた。まず、前記『島根県の歴史散歩』をみると、それはこうなっている。
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市の西北部には5世紀の大型前方後円墳、築山古墳や領家山古墳が存在し、馬見古墳群の南端を形成している。また日本書紀に見える百済意多郎墓は築山古墳の南に位置する岡崎に比定されている。近年、この付近で池田遺跡が発見され多数の埴輪などが出土した。
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なお周辺では、四隅突出型墳丘墓の西谷墳墓群、および塚山古墳・上塩冶築山古墳・上塩冶地蔵山古墳などの古墳の分布が知られる。大念寺古墳の権力は、そのうちの築山古墳・地蔵山古墳へと継承されたと推測される。
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同名の公園は鹿児島県等にも存在する。周囲は、公園のすぐ南東に位置する築山古墳を盟主墓とした馬見古墳群の南群に属する古墳密集地帯。付近の住宅地内にも、大小多くの古墳が残存し、園内にも確認出来るだけで2基の古墳が保存されている。
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また、築山古墳の周堤帯とコンピラ山古墳の間に数mの段差があり、それが、南に築山古墳を囲む形で延びており、一部は栂池という名の池となっている。これは、築山古墳の2重濠の痕跡と推定されている。築山古墳は、多くの大小古墳に囲まれており、築山駅前すぐ南のインキ山古墳、大谷山自然公園の中に残る複数の古墳、かん山古墳、古屋敷古墳、茶臼山古墳、前述の狐井塚古墳、コンピラ山古墳等がある。
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また、明治時代に黒石山の古墳の盗掘嫌疑で村人の事情聴取が行われたが、小さな古墳の被葬者の名でさえ、その時は忘れられていたが、元々言い伝えがあったことが判る。築山古墳に関係する家伝等の調査が望まれる。
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「古い由緒を伝える村」と書いていることから、何か伝承を見聞していた可能性がある。また、「帝室陵墓伝説地」に築山古墳が指定された折、「狂喜した」と言っている。墳丘の中心軸の延長線について、後円部方向は二上山の南にある竹之内街道の峠付近を通り、前方部方向は箸墓や檜原神社付近を通る。
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古い記録には付近に茶臼塚と呼ばれる古墳も存在したことが記されているが、その位置は現在確認されていない。端山古墳、築山古墳とも、埋葬施設の発掘調査は未実施である。これらの古墳は、細石神社の北東約200メートルの所にあり、さらに、北西約1キロメートルには平原遺跡がある。
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古墳に葬られた人物は、伊都国王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深い関係を持つ豪族であろうと考えられている。築山古墳、端山古墳とも、埋葬施設の発掘調査は未実施である。
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盾形の周濠が廻らされており、周濠を含むと全長は約99メートルとなる。端山古墳の南100メートルの所に、同じく前方後円墳の築山古墳があるが、端山古墳の方が先に築かれたと考えられている。古い記録には付近に茶臼塚と呼ばれる古墳も存在したことが記されているが、その位置は現在確認されていない。
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とすれば、百済意多郎とは百済王の弟として大和朝廷に滞在していた人物である可能性もある。意多郎の墳墓はまだ判明していないが、武烈天皇陵と伝えられる築山古墳の陪塚あるいは領家山古墳周辺に求めるべきと思われる。また、大和高田市に隣接する北葛城郡広陵町に百済地名が残存しているのも興味深いところである。
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島根県北東部、神戸川北岸の微高地上に築造された古墳である。周辺では中小古墳が取り巻き築山古墳群を形成する。墳丘周囲は削平を受けているが、これまでに1887年に石室が発見され副葬品が出土したほか、1985年度以降に墳丘周囲の発掘調査が実施されている。
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まず、前記『島根県の歴史散歩』をみると、それはこうなっている。築山古墳は円墳と考えられている。いまは森山家の屋敷の一部だが、一帯は水田地帯より若干高い微高地で、そのうえに文字どおり盛土をして築きあげたものだろう。
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古墳の見学はつねに安全だとはいいがたいし、また土地所有者への配慮が必要なばあいもある。ついでに周辺の古墳や、それらをたずねるばあいの筆者の注意書きまで引いたが、上塩冶町の築山古墳も、町なかにあったにもかかわらず、なかなかわかりにくいところにあった。一つは固く戸を閉ざした民家がならんでいるだけで、人通りがないため訊いてみることができなかったためでもあるが、やっと、それらしい樹木の生い茂った小丘陵のある森山家をさがしあてることができた。
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何らかの関係を示唆しているかも知れない。多神社から、摂社の屋就神命神社の方角を見ると、神楽、築山古墳の方角となる。実際には、理由はよく判らないが地元住民によって大切に残された「矢継ぎの森」に隠されて見えない。
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どちらかというと、築山古墳よりは北方、出雲市の中心街にあった大念寺古墳はわりとすぐにわかった。タクシーがどちらにすべきかちょっと迷った交差点の正面に、樹木におおわれたかなり大きな丘陵が見えていたが、よくみるとそのこちらの麓にあるのが仏光山大念寺であった。
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