竹馬の友であり
18 の例文
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その時には祖父さんはまったく子供となって子供とともに遊ぶのであった。先達て途中で私を呼びとめた者がいるから、誰れだろうと思ってふり向いて見ると例の竹馬の友であった。彼は私の祖父さんのことは今に忘れられない、あんな慈悲の深い人はまたといないといって涙ぐんだ。
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大閤秀吉が歿ったのは、慶長三年八月のことだったが、その一周忌にもならない、翌慶長四年三月に加賀の国主、前田利家が薨じた。前田利家は織田信長の家臣であり、秀吉とは竹馬の友であった。五大老の筆頭として、まだ幼い秀頼を補佐すると共に、とかく反目しがちな北の政所と淀の御方の間を、波風立たぬよう心をくばってきた。
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深田、鶴岡の二人が、熱望した勝負の晴の舞台を与えられながら、その直前に刃を交えて、相互に傷つけ合ねばならなかったのは、そもそも、どうしたわけであったか。由来この二人は竹馬の友である。しかるに、今二人の間にみるものは、無限の憎悪と憤激が、三尺の剣に凝結して、烈火と燃えているのみではないか。
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小林というのは駅長の郷里で一番の旧家でまた有名な資産家であった先代に男の子がなくて娘ばかり三人、総領のお幾というのが弥吉という婿を迎えて、あとの娘二人はそれぞれよそに嫁づいてしもうた。この弥吉とお幾との間に出来たのがかの小林浩平で、駅長とは竹馬の友であった。ところがお幾は浩平を産むととかく病身で、彼がやっと六歳の時に病死してしもうた。
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生まれた年も四郎と同じ慶応二年である。四郎の竹馬の友であった。さらに書いておけば、四郎の義父である近悳の妹八代子の三男であり、四郎とは義理の従兄弟関係にあった。
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当山が過去と縁を切ろうとしていたことは明らかだ。竹馬の友である稲田教由との交友さえ絶っていたか、少なくとも、付き合いを他人の眼から隠していたとしか考えられない。しかし、そのことと、店の名を『藤ノ川』としたことの矛盾はどう説明すればいいのだろう。
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太宰治の『走れメロス』は、ご存じであろう。死刑になりかかったセリヌンチウスは、「メロスの竹馬の友であった」という。わたしはかれの心情が、メロスのことより気にかかる。
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あのとき千秋は、ただ父の組付の子供をかばったわけではなかったのでしょう。本来なら同じ境遇の竹馬の友であるかもしれなかった嘉一郎に、せめて寄り添って、ともに嘆くべきだと考えたのにちがいありません。大野千秋はまことに神経の細やかな、悧発な子供でありました。
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それも、こちらが忙しいのもお構いなしにだ。ちょっと親しく酒を飲むともう、竹馬の友であったかのように思いあがって、相手かまわず土足であがりこんでくるこの種の人たちは、決まって頼みもしないのに自分から心を開いてくる。
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この中で華北における漢人勢力には東晋に帰属を願う者も多かったため、北府の殷浩らは北伐を行なおうとした。この殷浩は桓温とは竹馬の友であったが、桓温同様に軍事力に長けていたことから成漢滅亡で権力を得た桓温に対抗するために擁立されていた人物だった。桓温はこの北伐が失敗することを見抜いて自らは出陣せずに部下を送り、その見立てどおり352年に北伐した殷浩は許昌に至るも武将張遇の反乱により進軍を止められ、姚襄の軍に大敗し、責任を問われて流罪にされ、桓温は殷浩の軍権も掌握するに至った。
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ヘルタでチームメイトのパルコ・ダルダイとは竹馬の友であり、幼少期には彼の父親でヘルタ監督であるパル・ダルダイと共に休暇を過ごしたりしていた。
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天保4年、刈谷藩士宍戸弥助の六男として刈谷に生まれる。天誅組三総裁の一人松本奎堂とは竹馬の友である。この二人は譜代藩出身の勤皇志士という点で異色の経歴である。
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頼山陽をはじめ多くの文人・学者らと交遊。蘭医の小石元瑞や儒学者の篠崎小竹とは竹馬の友であり、また大塩平八郎とも長年親交している。文政13年にお伊勢参りに出かけている。
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その時には私はわが生命を救われたかのような喜びを生じたです。堺では私の竹馬の友である伊藤市郎氏、この方もよく慰みに網打に行かれたですが高部氏の話をして諫めたところが幸いに私の請を容れ網を焼いて餞別にしてくれた。大阪では安土町の渡辺市兵衛氏、この方は以前からなかなかの資産家で今は株式仲買業及び朝鮮で交易することを専門にして居りますが、以前は船場で泉清という名高い鶏商屋でありました。
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前の将軍家が歿した時、紀伊と尾張の間に激しい暗闘があったといううわさが、誰の口からともなく巷間にひろがって、尾張は新将軍の令に伏すまいなどというような事さえ吉宗の耳にはいっておりますので、彼は万太郎の素行も、昔からの性格とは知りつつ、やはり好意のある理解は持てなかったとみえます。しかし、表面はどこまでも、竹馬の友である紀伊の庶子と尾張の庶子とが打解けたさまで、 「何の頼みかと思うたら、江戸城の庭を観せてくれとはいと易い望みじゃ、幾日なりと滞在して御覧あるがよろしかろう」 と、吉宗は彼の深慮のあるところを知ってか知らずか、簡単に笑って承認を与えました。
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のち警察官に採用され畑能賢や蛤御門で一番槍の功名を挙げた窪田伴治の遺児らと同僚となった。小松にとって同年配の、畑英太郎、俊六兄弟は竹馬の友であり、「畑の太郎さんを見よ」と言われて育った。養父の小松運は西南戦争に出征した陸軍軍医であった。
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豊吉はうなずいて門札を見ると、板の色も文字の墨も同じように古びて「片山四郎」と書いてある。これは豊吉の竹馬の友である。
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