竹馬の友
117 の例文
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わしの竹馬の友ともいうべきニコライ・ペトローヴィッチの御子息ですね?
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私が、あのかけがえのない竹馬の友と、どのような別れをしたのか。誰にも語ってはいないその日のことを、できるかぎり正確にお伝えしたいと思います。
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後述のような文化もあってか、現在では異性の相手を思い浮かべる人も多いようである。本来は同性・異性を問わない、いわゆる「竹馬の友」を指す言葉である。
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ぼくはもう一度やってみたが、やはりだめだった。その天使が竹馬の友と同じくらい親しいものだと彼女に話すことができなかったのだ。というわけで、簡単なことだった。
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しかしお続けなさい、僕は興味がある。竹馬の友を殺した私の動機とはいったいなんです?
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山口県知事から大阪府知事へというのは、例のない栄転である。林は、熊本県人で鳥居とは竹馬の友、済々黌まで机を並べた仲である。その林の大阪府知事への抜擢は、彼を仲介として鳥居を軟化させようとの後藤の意図によるものといわれた。
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よく来てくれた。吾輩の竹馬の友といったら、今では君一人なんだからね。
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その時には祖父さんはまったく子供となって子供とともに遊ぶのであった。先達て途中で私を呼びとめた者がいるから、誰れだろうと思ってふり向いて見ると例の竹馬の友であった。彼は私の祖父さんのことは今に忘れられない、あんな慈悲の深い人はまたといないといって涙ぐんだ。
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大閤秀吉が歿ったのは、慶長三年八月のことだったが、その一周忌にもならない、翌慶長四年三月に加賀の国主、前田利家が薨じた。前田利家は織田信長の家臣であり、秀吉とは竹馬の友であった。五大老の筆頭として、まだ幼い秀頼を補佐すると共に、とかく反目しがちな北の政所と淀の御方の間を、波風立たぬよう心をくばってきた。
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ナンセルは、またひどい目に逢ったものだ!モオヴァル氏は自分の竹馬の友の、結婚生活の不幸を想像して可笑しい事に思うのだった。この結果、アンドレの試験は危なかった。
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しかし当世には大いに通用する。堀尾君とは竹馬の友だから、常に有効な忠告を与えてくれる。
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あんたんとこのお父さんとは、竹馬の友だし、御先代には、一方ならぬ御指導をいただいた。お帰りになったら、よろしくお伝えねがおう。
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すなわちアレキシス・ドーブレクと、ビクトリアン・メルジイと、ルイ・プラスビイユと申上げれば此度事件の裏面はほぼ御解りでしょうと存じます。この三人はもとから竹馬の友で、学校も同じければ、軍隊も同じ連隊でした。その時、プラスビイユはニイスのオペラの女優を愛しておりましたが、メルジイとドーブレクとは私に思をかけていました。
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深田、鶴岡の二人が、熱望した勝負の晴の舞台を与えられながら、その直前に刃を交えて、相互に傷つけ合ねばならなかったのは、そもそも、どうしたわけであったか。由来この二人は竹馬の友である。しかるに、今二人の間にみるものは、無限の憎悪と憤激が、三尺の剣に凝結して、烈火と燃えているのみではないか。
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二人とも私の竹馬の友である。私の家の裏に私の家の持ち家である長屋があったが、その共同水道からはいちばん遠い位置にある一軒にはじめさんの家族が住んでいた。
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学校の帰途、驟雨に逢えば、四辻から、紺蛇の目で左褄というのが出て来て、相合で手を曳いて帰るので、八ツ九ツ時分、梓は酷く男の友人に疎じられた。人は皆竹馬の友を持ってるけれども、梓はかえって手鞠、追羽子の友を持っていたのである。
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算えの十六とはいえ父の囚われた今、私は大野家の主でした。御組頭として、また竹馬の友として、このようなとき父ならどうするのでしょう。戦が終わり、静まり返った御城下にはしんしんと雪が降り積んでおりました。
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これらの店で、昔の友人知人の死をきいたり、また逆に発展を喜んだりする。もう十数年前になるが、善さんが嫁を貰ったという話をきいたのも、彼の竹馬の友の魚屋の主人からだった。
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丁度上田万年博士が帰朝したてで、飛白の羽織に鳥打帽という書生風で度々遊びに来ていた。緑雨は相応に影では悪語をいっていたが、それでも新帰朝の秀才を竹馬の友としているのが万更悪い気持がしなかったと見えて、咄のついでに能く万年がこういったとか、あアいったとか噂をしていた。壱岐殿坂の中途を左へ真砂町へ上るダラダラ坂を登り切った左側の路次裏の何とかいう下宿へ移ってから緑雨は俄に落魄れた。
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雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす」と「やす」と呼び会う仲であった。仲の良かった理由の一つには、互いに遠縁の親戚であったことが挙げられる。
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小林というのは駅長の郷里で一番の旧家でまた有名な資産家であった先代に男の子がなくて娘ばかり三人、総領のお幾というのが弥吉という婿を迎えて、あとの娘二人はそれぞれよそに嫁づいてしもうた。この弥吉とお幾との間に出来たのがかの小林浩平で、駅長とは竹馬の友であった。ところがお幾は浩平を産むととかく病身で、彼がやっと六歳の時に病死してしもうた。
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「さっきの鍾馗、なかなかのものですね」 なにをいい出すのかと、東吾は竹馬の友の顔を眺めた。「長助の孫に買ってやって下さったのは感謝しますが、ついでのことに、もう一本、買って下さる気はなかったのですかね」 「源太郎か」 「なにしろ、手前は御用繁多で、なかなか十軒店までは足が及びません」 東吾は笑い出した。
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四五日前竹村書房の大江勲がやつてきた。大江は私の竹馬の友で、私のあらゆる出版はみんな自分が引受けると一人でのみこんでゐる男だから、私は遺言第一条の件を伝へた。生れつきづぼらの性で遺言状も書き忘れて死ぬ懼れがあるから、手紙や日記の出版はやらないやうに呑みこんでゐてくれと言つたのである。
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わたしは二人の会見のもようを詳しく知ることはどうしてもできなかったが、その後幾度となくその場面を想像してみた。いちばん考えられるのは、彼がはじめから彼女のまえで愛する親友の身を案ずる竹馬の友としての役割を演じたであろうということである。
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天狗住めりとて、早池峯に登る者も決して此山は掛けず。山口のハネトと云ふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。極めて無法者にて、鉞にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞のみ多かりし人なり。
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竹馬はかつて子供の遊び、特に冬の遊びだった。幼な友達を竹馬の友というのもここから出ているが、長ずれば皆それぞれに散ってゆくのが世のさだめである。「いろはにほへと」を一緒に習った仲間が、「色はにほへど散りぬる」さまに散ってゆく。
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生まれた年も四郎と同じ慶応二年である。四郎の竹馬の友であった。さらに書いておけば、四郎の義父である近悳の妹八代子の三男であり、四郎とは義理の従兄弟関係にあった。
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結果的に両者はそのまま試合場に乱入、このまま試合を執り行う事となった。この両者、元は同じ道場の門弟であり、竹馬の友であった。その2人が試合前から争う事となったのは青年時に生まれた僅かな溝からの宿縁であった。
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