法会
446 の例文
(0.03 秒)
-
仏典や中国・インドの説話、特に孝養に関する説話が記されており、内容は首尾一貫していない。法会の時の説教の際に用いられた諷誦文の原稿の断片と推定されている。平安時代前期の日本語資料として貴重なものである。
...
-
漢文と仮名文の二種類の本文が現存することで知られている。仏事法会の際、その主催者である施主の願意を述べた文章を願文と呼ぶ。願文は元来漢文で記されるものであったが、鎌倉時代になると、仮名を交えて表記されたものが作成されるようになった。
...
-
現在、少なくても18か国の神名帳が残されており、群馬県の総社神社のように国内神名帳自体が神体になっている例もある。中世には総社勧請や寺院の法会での諸神招請に利用されていたとみられている。また、現存する神名帳のほとんどが中世期の書写で、中世期における加筆・追記が行われており、古代の神名帳そのままのものではないことに注意を必要とする。
...
-
宗念寺で法会をしたあと、すぐ近くにある支度茶屋で早めの食事をした。まわりは青々とうちわたした稲田や林が多く、武家の下屋敷らしい建物が、ところどころにあるばかりで、どんな片田舎へ来たかと疑われるほど、鄙びた景色であった。
...
-
そこで玄奘は、貞観十三年九月三日をもって化生寺に壇を開き、この日太宗は、文武の百官をひきいて化生寺に臨御、親しく仏前に香をたいて拝された。それより七七四十九日にわたって、法会は盛大に続行されるわけであった。
...
-
-
以降、小川家が墓守を務め、上野では大規模な法会が毎年営まれている。
-
今日の法会の縁を思うだけでも、もっとうちとけて親しくしてほしいものだ。
-
六十人の僧に出す布施の用意もいかめしく薫はさせた。母夫人も法会には来ていて、式をはなやかにする寄進などをした。兵部卿の宮からは右近の手もとへ銀の壺へ黄金の貨幣を詰めたのをお送りになった。
...
-
この上はせめてもの心やりと、二つには自分の威勢を示すために、忠通は兼輔の三七日法会を法性寺で盛大に営むことになった。この時代の習いで法性寺の内に墓地はなかったが、法会は寺内で行なわれた。殊にこの寺は関白の建立で、それをあずかる隆秀阿闍梨は兼輔が俗縁の叔父であるから、忠通が彼の法会をここで営むのは誰が眼にもふさわしいことであった。
...
-
後三条天皇は延久4年に、仁和寺内に建立した円宗寺で法華会を修させ、最初の年には園城寺から、その後は延暦寺と園城寺から隔年で交互に講師を出させた。これは寺門側からの独自の僧綱ルートとなる法会創設の願いに応えたものである。こののち承暦2年には、白河天皇主導で法勝寺で大乗会が行われ、先の円宗寺法華会と最勝会とを合わせ「北京三会」とし、寺社勢力を配下に置こうとした。
...
-
私はまた一つ法会をするように呼ばれている。
-
源氏は夕顔の四十九日の法要をそっと叡山の法華堂で行なわせることにした。それはかなり大層なもので、上流の家の法会としてあるべきものは皆用意させたのである。寺へ納める故人の服も新調したし寄進のものも大きかった。
...
-
本来は仏道修行者の指導者である善知識の略称であった。後には僧尼の勧化に応じて仏事法会に様々な形で協力する人々を広く指すようになった。知識となった人々は知識結と称する団体を結成した。
...
-
源氏に悲しい思いをさせるのは辛いと、人しれず心の中で悲しんでいるのである。二条の邸で法会を行うときも、これが最後と紫の上は思う。「何ごとにつけても心細くのみ思し知る」紫の上は、その心細さを、いまは古い友となった明石の上にうちあけるのである。
...
-
法会とは、仏教において仏法を説くためや供養を行うための僧侶・檀信徒の集まりである。特に大きな法会は大会と称されることがある。法会は、古くからインド・中国でも降誕会や成道会は行われており、日本では、蘇我馬子がすでに法会を行っていた。
...
-
なお円宗寺は鎌倉時代に廃寺となっている。その後、法会は追善供養などで行われる法要などと同じ意味で使われるようになった。なお、宗祖や高僧の忌日にその画像を掲げて供養する法会のことを御影供と称するが、特に真言宗において日本真言宗の祖である空海の月命日である21日に行われる御影供は有名である。
...
-
-
よほど打寛いで話でもする時でなければ、小刀は腰から離す事はない。たとえば人の年忌で法会などをする時は、主客共に上下を着て必ず一刀を帯びている。そこで迎えた法師が経を読み終えて、いよいよ食膳につくという時になると、法師が『御免なさい』といって袈裟を脱いで輪袈裟に更える。
...
-
また、ある家の法会で鐘をたたくかわりに、屁をひってお経をあげたという。これも、おとながおもしろ半分につくったうそらしい。
...
-
朝から梅雨のような細かい雨が降っていて、明けてある窓の外には、庭に茂る樹々の緑がいま描きあげた絵のように、新しく鮮やかに濡れていた。彼女とはそのまえ寺の法会のときにいちど会った。遠くから目礼を交わしただけであるが、躯つきにも面ざしにも思ったほど変りがなく、やはりおっとりとなごやかな眼で微笑しているようにみえた。
...
-
銅盤は芝居の鳴り物にも使われる楽器で、鐃鈸あるいは銅鈸子・銅拍子とも呼ばれる。本来は寺社などで僧侶が法会をおこなう時などに使用していた金属製の輸入楽器である。稲田篤信は石燕の描いた乳鉢坊について、摺鉦の妖怪であろうかと解説している。
...
-
この池では法会・饗宴などが開かれたという。長岡宮にも同様の施設があったことが分かっている。
...
-
神事・祭祀・法会など宗教的な儀式の際に着用されるものだが、仏教や神道のみに限定されない場合もある。「清浄な衣服」という広い意味で、例えば、四国八十八箇所巡礼の参加者の正装である・なども含めて言うこともある。
...
-
周辺住民たちは基地にまつわる不運が相次ぐことを土地公廟の移転と絡めて祟りだと噂するようになり、早期に元の場所に戻すよう抗議した。台鉄側も法会を行って土地公の怒りを鎮めることにしたほか、新たに基地用の安全祈願のシンボルを求めることにした。
...
-
探題とは、仏教上の職名ないし僧階また中世の幕府の役職名。探題は僧階昇進のための課試を行う法会の一種である維摩会の主催者。興福寺の竪義論義では竪者、問者、探題が出仕し、探題が題者として竪者に出題し、竪者と問者との問答の判定を行う役を言った。
...
-
斉衡二年五月、大仏のあたまが地に顛落するや、藤原良相とともに親王は修理東大寺大仏司検校という役につき、足かけ七年をついやして修造工事を完成させた。貞観三年三月における大仏開眼の法会は言語に絶する盛儀だったという。ときに六十三歳。
...
-
このモンラムの祭典中も私はやはり大蔵大臣の家に居りました。で、ただその供養を見ただけで法会には行きません。なぜ行かないかというに何分急込しくってなかなか坐る場所がない。
...
-
結局自分が施主になって、寺内に鯉塚を建立すると、この時代の習い、誰が言い出したか知らないが、この塚に参詣すれば諸願成就すると伝えられて、日々の参詣人がおびただしく、塚の前には花や線香がうず高く供えられた。四月廿二日は四十九日に相当するので、寺ではその法会を営んだ。鯉の七々忌などというのは前代未聞であるらしいが、当日は参詣人が雲集した。
...
-
地名は平安時代の「覚満」という名の人物に由来する。比叡山延暦寺の高僧であった彼が、当地で法会を行ったとされる。当地では高山植物やコケ植物が群生している。
...