次第に奢侈
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天明の大飢饉ではあまり被害を受けなかったこともあり、また先々代・先代の頃から続く藩財政好転の兆しもあって、逆に飢饉に対する対応策で悩む幕府に対して献納金を申し出るほどだったという逸話もある。しかしこのため、高松藩は次第に奢侈に走るようになり、また風俗なども乱れるようになって藩財政は次第に悪化していくようになった。寛政元年に向山周慶が砂糖製造に成功し、以後は砂糖が高松藩の特産品となった。
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寛政4年、叔父で7代藩主・松平頼起の跡を継いだ。当初は緊縮財政を行っていたが、次第に奢侈に傾き、藩札の乱発により物価高騰と紙幣の価値低下を起こした。また、殖産振興策にも失敗し、さらに江戸屋敷が火災に遭ったり、屋島神社造営の建築費を支出するなどした結果、江戸・大坂の商人からの借財が50万両以上に達し、藩財政が破綻状態に陥った。
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特製の献上小判も作成され、この場合小判師の験極印、吹所の験極印は意図的に「大」「吉」が打たれている。元文の吹替えにより通貨の供給が増大し、やがて金銀相場も安定し経済が発展したが、次第に奢侈的消費増大の風潮となるなか11代将軍、徳川家斉の子女の縁組費用、蝦夷地直轄政策などにより幕府の支出が増大し再び財政が悪化の一途をたどっていった。また古文字金は80年以上の長期間に亘って流通したため損傷や磨耗が著しくなり、吹替えはこれを是正するという名目であり古文字金の損貨を無料で新金と引き換えるということであった。
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材料としては南鐐と呼ばれる上銀を使用しながらも、丁銀と比較すれば一両あたりの銀含有量は劣るものであった。文政年間に入ると、次第に奢侈的な風潮が高まり幕府の財政も逼迫し、老中、水野忠成の命により二分判など小判に対し金含有量の劣る名目貨幣が乱発されるようになり、あからさまに吹替えによる出目を狙ったものであった。天保3年には二朱判、天保8年からは一分銀が多量に発行され、これらの金銀含有量はさらに劣るものとなった。
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