権現
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あんなにまでして、わたしの思いが権現さまに通じないことがあろうか?
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本当に典膳が斬る気だと知るとさすがの権現与太郎も顔から血が引いた。
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なお、国東六郷満山に数えられる両子寺奥の院においては、仁聞菩薩と八幡大菩薩を併せて「両所権現」として祀っている。これは両子権現とも呼ばれ、同寺や所在する山の名前の由来と思われる。福岡県、佐賀県・長崎県・大分県・熊本県の33箇所の寺院からなる九州西国霊場は、奈良時代に仁聞と法蓮によって開設されたと称している。
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そこにはりっぱな観音堂があるが、これらの木像のかっこう寸尺はついに聞き洩らしてしまった。御神体はまったく違うが、これに似た話がほうぼうの権現さまにもある。元来このゴンゲンサマというのは元蛇体の変化物で、形態はすこぶる似ているけれどもオカグラサマすなわちオシシとはぜんぜん相違している。
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七〇 遠野町字蓮華の九頭竜権現の境内に、化け栗枕栗などという栗の老樹がある。権現の御正体はすなわちこの樹であって、昔は女を人身御供に取った。その折枕にして頭を乗せていて、人を食ったのが枕栗であるという。
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そうして現に驚いている自分を嘲けるごとく見た。自分は今の兄と権現社頭の兄とを比較してまるで別人の観をなした。今の兄は翻がえしがたい堅い決心をもって自分に向っているとしか自分には見えなかった。
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慶長19年8月28日には家康から社領として50石を朱印寄進され、これは明治維新まで続いた。江戸時代には徳川幕府の指示によって桜井権現と呼ばれるようになった。享保20年には神祇官の卜部氏から正一位の神階を受けた。
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用材はスギ、ゴヨウマツ、ケヤキなどがあって一定しておらず、運搬が困難であったため現地調達をしたのではとの推測がある。元権現から現在の松苧山の山頂に移築された時期ははっきりとしない。懸造であった時期に崖からせり出した部分に用いられていた部材の状況から判断すると、創建後比較的早い時期に移築されたものと推定されている。
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ところがあるとき巡礼がきて何か悪口をいったのか娑伽羅が怒り、観音石は三つに折れて飛んだ。その一つが芋場畑に落下したので、それを祝ったのが立石権現とされる。拘留孫岩はずいぶん昔から有名だったとみえ、神武天皇も見物に行かれた。
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どうじゃ、寺社奉行の雲がくれは権現様以来聞いたことがあるまい?
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大日本地名辞書の「佐白山三所大権現」にかかる記述は、明記はないが、語彙や文脈からは新編常陸国誌を参照しているため、「三白権現」や「三所大明神」との混同による誤引用とみられる。六社権現は明治初期の火災の影響か、正福寺境内には現存しないようである。明治5年、最後の笠間藩主、子爵牧野貞寧公により佐志能神社が旧地に復した。
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温泉から三国峠へは二時間で楽に登れる。五月でも三国権現のお宮の前には五、六尺の残雪を見るのが普通であった。ここまで来たならば次手に右手の草原を辿って三国山の頂上まで登るがよい、唯一時間の辛抱であるから。
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しまいに兄は「じゃその権現様へでも行くかな」と云い出した。「権現様も名所の一つだから好いでしょう」 二人はすぐ山を下りた。俥にも乗らず、傘も差さず、麦藁帽子だけ被って暑い砂道を歩いた。
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当時は奥東京湾が当地域あたりまで迫っており、縄文時代では当地域より奥の島田・保品・神野・高野地区で数多くの貝塚があったことが確認されている。当地域では権現後遺跡・北海道遺跡・白幡前遺跡の3箇所で貝塚が確認された。萱田遺跡群で出土したのはブロック・礫群・住居跡・炉跡・土坑であるが、そのほとんどがブロックと礫群で住居跡が出土するのはまれである。
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あらありがたやと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上らせ給う。御代より権現様を載せ奉りし船なれば、権現丸とはこれをいうなれよ。ソウリャヤンヤイヤン。
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「若だんなを攫ったあの馬鹿侍二人が、用意していた宿です」 どうやら侍達は当初、若だんなを攫った後、ここに連れてきて、長崎屋からの身代金代わりの朝顔を待つつもりだったらしい。権現様につてがあり、しばしこの建物を借り切っていたようなのだ。仁吉はゆっくりと境内を歩いている。
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わしたちは希望を失いますまい。権現様のご利生でもきっと迎えの船が来て、都へかえることができるでしょう。成経 それはあの山から煙の出ない日を待つよりも、はかないことかもしれない。
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この病気を機に、家の近くにあった権現様と呼ばれる村の小さな社にお参りするようになったという。健康の祈願と「もう一人の私」とは誰であろうかという疑問を解くために、毎日朝夕の参拝をし続けたとされる。
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また、七座山の最高峰である権現座を望むように七座神社が鎮座する信仰の山でもある。最高峰の権現座は右の写真でも米代川をはさんでもっとも高く見える山である。権現座と松座には三角点が設置されている。
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この人をやり過ごして、中なる秘密室の構造に当ってみようか、それともこの人のあとをつけて、その行先を突留めようかと、奇異なる労働者は思案をするもののようでありましたが、その思案は後の方のものにとまったらしく、出て行く人のあとをつけて、木立の深みへ入りました。人影は権現の社の方をめざして歩みを運ぶもののようであります。「そこへ行くのは宇津木ではないか」 火薬の製造所をやや離れてから後ろに呼ぶ声を聞いて、前に進んで行った若い侍風の人は、ハタと歩みを止めました。
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山麓に複数の神社があり、登山口には権現神社の石製鳥居と祠がある。雲雀鳥屋は、栃木県宇都宮市の北西郊外に在る標高362mの低山である。
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沖縄の方に行きますと、やはり同種類の話が沢山ありまして、普天間といふ所の普大間権現の由来は、内地でも名高いものです。名前は権現と言つてをりますが、祭神がとつくに沖縄的に変つてしまつてゐます。普天間権現といふ神様は女神で、首里の町の桃原御殿といふ貴族屋敷の娘です。
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峠の東側は五尺余りの雪庇が発達し、それを打砕いて峠の上に立った。権現様のお宮も鳥居もまだ雪に埋もれて、上の方が少し露われているに過ぎない。三国山の南側の草原だけは地肌が出て居たけれども、頂上は一面の雪で何処でも自由に歩けた。
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柳島村からかなり上った岸辺にこんもりした森がみえる。吾嬬の森、又は、浮洲の森と呼ばれる所で、その中に吾嬬権現の社がある。
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大方、権現様が江戸へお入りになる前に殺された武者ではないかということになった。なにしろ、今でこそ、あのあたりは武家地で大名家はもとより直参旗本、御家人衆の屋敷が寄り集まっているが、その昔は寺と墓地だらけだったらしい。
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雪の多い朝、雪を下ろしに屋根へ上った小者が、それきり吹雪のなかに行方知れずなったことや、いまのいままで居た老婆が、ふいに縁側から辷り落ちたように見えなくなったことさえあった。それと同時に、誰がいうとなく黒壁の権現に詣るものが多かった。
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また、関東平野を望む山頂東南端は、1929年の旧日本陸軍特別大演習の際に昭和天皇が統監した場所であるため、御野立所の碑が建ち、市の指定史跡となっている。碑の傍らには、権現山の由来となった権現社の祠が祀られている。朝日峠から、雪入山、青木葉峠、青木葉山、元青木葉峠、浅間山、閑居山、権現山の順に筑波連山の稜線を縦走し、恋瀬川に到る登山者が多い。
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権現には山王神道・両部神道に基づくものや、自然崇拝と修験道が融合したもの等があり、民間信仰においては地域の名士や不慮の死を遂げた人物などが死後に権現として祀られる例も見られる。なお、「明神号」と「権現号」が区別されずに使用される例も少なくはない。春日大社は武甕槌命・経津主神・天児屋命・比売神の四柱の祭神を祀るが、中世には興福寺が神宮寺として支配的な影響力を持ったため、神仏習合に基づいて不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音をそれぞれの本地仏とし、社にちなんで「春日権現」と総称した。
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