晴耕雨読
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名詞
68 の例文
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確かにヤツにその気はあったのだ。静かに隠遁晴耕雨読など、あれにわしの真似が出来るはずがない。今、その気は臥ているのだろう。
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山路治郎兵衛は、生活は質素倹約を常とし、家訓では農業に精を出すこと、奉公人と同じ食事を取ることを奨励した。商売が一定の成果を上げると隠居して晴耕雨読の日々を送った。
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はじめ翰林院編修などの役職にあったが父の死で帰郷。そのまましばらく晴耕雨読の日々を過ごしていた。だが、咸豊帝即位直後に太平天国との戦火が著しくなると、蘇州を死守するため自ら赴き一団を募り抗戦したが、咸豊10年に蘇州は陥落、上海に落ち延び、そこで曽国藩の傘下となり防衛を続けた。
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同年春、睡眠薬を大量に服薬し、自殺未遂を起こした。その後、女優業を休業して、岐阜県の山村で晴耕雨読の日々を送った。
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孔明は劉表に仕官しようと思うなら、いくつかコネがあり、出来ないことはなかった。しかし、隆中に弟の諸葛均となお晴耕雨読の暮らしをしている。均は理由を問おうとはしなかった。
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この分では園芸とは無関係な夏を過すことになるだろう。以上私は、私の園芸趣味が附け焼刃であることを告白したが、それはそれとして晴耕雨読は昔から私の理想である。何も文人を気取るわけではないが、裸足で庭に飛び出して土をいじくり、疲れては昼寝をしたり本を読んだりして暮せるならば、私のような怠け者にとってこれに越したことはない。
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ヌマは、ロムルスの招聘に応じてローマに移住した同胞とはちがい、先祖伝来の地に残ったサビーニ族の一人だった。農耕のかたわら知識探求にもはげむという、晴耕雨読型の人物であったらしい。徳の高さと教養の深さは、ローマにも聞えていた。
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奇しくも三国時代に始まった原始道教は、六朝時代以降に発展し、清廉で俗世から遊離した仙人・道士のイメージが知識人層に浸透した。若くから晴耕雨読の生活を送っていた孔明もまた、神仙的な色合いで語られるようになる。
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連合軍との折衝は心中複雑な思いがあった。以後、故郷の知多半島に戻り晴耕雨読の生活が始まった。元部下が訪れた時には、自身の作った西瓜や桃を自ら獲り、ごちそうした。
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農業とはなかなか大変なのである。晴耕雨読というと格好もつくが、実のところ農事はそうそう甘っちょろいものではない。雨が降っていてもやらねばならぬことはたくさんある。
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この心境の変化がすでに詩の後半に表現されている。詩は心を家郷によせ、隠棲して晴耕雨読の生活に入ることを望む心境を賦したものである。
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が、その妻が間もなく死ぬと、子供を親戚に託して、また飄然と村を出ていった。それから十年ほど経て、ふたたび村に帰って来て、少女に成長した娘を受けとり、以来竹藪の中の家で、晴耕雨読の日を送っている。すなわち、右の隠士風の人物がこの秋山龍子先生である。
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村民の中には、久三の大胆な改革姿勢に反発し、中傷したり暴行を加えたりする者もあったという。久三はその後、総代も辞し、一人で山にこもり晴耕雨読の生活にふけった。のちに久三の盟友となる平良新助は、中学在学中の1896年秋ごろから、幸地山に閑居する久三を足しげく訪ねたと語っている。
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朝起きたなりに、座敷の掃除もせぬらしい。昔からかかってる晴耕雨読の額も怪しく蜘蛛の巣が見える。床の間にはたたんだ六枚折りの屏風が立てかけてあって、ほかに何やかやごてごてと置いてある。
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明治期から大正にかけて活躍した文豪、徳冨蘆花の旧宅が、没後、東京市に寄贈され、武蔵野の面影を多分に残した公園として一般に公開された。公園内には広場の他、徳冨蘆花の旧宅などを現在でも見ることができ、晴耕雨読を旨とした晩年の蘆花の生活ぶりを垣間見ることができる。
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本好きの人間にこの話をすると、たいてい「ワカル、ワカル」と身を乗り出してくる。晴耕雨読の生活でもしていない限り、なかなかじっくり本が読めないのが多忙な現代社会。読みたい本ばかりが棚に積まれ、そのまま埃がたまっていくのを見るのは、なんとも虚しいものだ。
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わしら、ちょっと老いぼれてきてるから、夜は早いんよ。お百度参りとかに対応してる夜型の神さんもおるけど、わしらはどっちかというと、晴耕雨読みたいなタイプやからなあ。マギーさんの夜の生活にまでは気が回ってなかった。
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