日本語スーパー字幕
19 の例文
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CMPEに最初に送られてきたのがディアナ・ダービンの『春の序曲』、グリア・ガースンの『キューリー夫人』、ポール・ルカス、ベティ・デイヴィスの『ラインの監視』の3本。これを試写してみたところ、すでに日本語スーパー字幕が入っていたというのである。最初の日本語のスーパー字幕つき映画『モロッコ』が公開されたのが昭和6年2月。
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この「キネマ旬報」は戦前の「キネマ旬報」を同人の一人友田純一郎が踏襲して再刊したもので、いわば映画界のオフィシアル・ペイパーなのだから、昭和21年にアメリカで日本語版スーパー字幕をつくった映画は『春の序曲』『キューリー夫人』『ラインの監視』の3本ということに決めても間違いはなかろうと思う。もっとも、日本語スーパー字幕のことはどんな場合にもあまり大きく扱われたことがない。たとえば田中純一郎の労作「日本映画発達史」のなかにもちょっとふれられているだけだ。
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野中君とおなじようにセントラルでスーパー字幕の仕事をしていた金田文夫君に聞いてみたところ、そういわれてみると、そんな映画が2、3本ありましたよ、といった。アメリカ製日本語スーパー字幕があったことなど、まったく問題にしていないのである。昭和21年6月の「キネマ旬報」にセントラル・モーション・ピクチュアについての記事があって、そのなかに『春の序曲』『キューリー夫人』『ラインの監視』の3本は日本語スーパー字幕の入ったプリントが送られてきたが、今後日本でスーパー字幕をつくることになり、田村幸彦が字幕製作を担当する、と記してある。
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そのことは私もたびたび書いているが、世間にはまだ日本語スーパー字幕誕生の事情を知らないひとが大ぜいいる。ヘラルドがつくった『モロッコ』のチラシに次のようなことが書いてある。
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翻訳部長といっても、翻訳部は二人だけ。私の仕事は日本語スーパー字幕をつくることだった。もう一人の宮本信一君は、映画といっしょに送られてくる dialogue sheets の全訳を担当していた。
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とにかく、ワーナー・ブラザース日本支社はキューブリック監督から日本語字幕を原文にもっと忠実に、全部作り直せ、と指示されたのでは、何とかしなければ映画を公開できない。予定されていた昨年秋の公開予定を延期して、日本語スーパー字幕の第2稿を作成することになった。ここで当惑したのがワーナー・ブラザースの小川政弘制作総支配人である。
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私はこのプリントを22日の朝、映倫外国映画審査員として、他の審査員と一緒にワーナー・ブラザースの試写室で見た。ここに例を挙げたような英文のせりふをほとんどそのまま、日本語スーパー字幕に置き換えてある。試写を見た映画関係者の一人はこう言っている。
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最初の日本語のスーパー字幕つき映画『モロッコ』が公開されたのが昭和6年2月。それから現在までに日本語スーパー字幕が入った外国映画はざっと数えて1万5千本ぐらいあるだろうと思うのだが、そのスーパー字幕をだれがつくったかはほとんどすべてわかっている。戦前の映画のうち、年に2、3本しか輸入していない会社のものには、字幕製作者の名前がすぐ浮かんでこないのもあるが、手をまわして調べればわかるはずである。
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とにかく、1200枚検討するのだから、気の遠くなるような作業である。みなさんごぞんじのとおり、日本語スーパー字幕はもとの英語のせりふの二分の一から三分の一の長さであるのが普通であるから、原文のせりふの1節が抜けている場合もある。ときには原文とまったく違う表現の日本語で原文の意味を伝えている場合もある。
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私をMGMから引き抜いたのは日本語スーパー字幕の第1回作品『モロッコ』をつくった田村幸彦さんだった。パラマウント映画の日本語スーパー字幕は田村さんと私とでつくることになっていたのだが、田村さんのニューヨーク到着が遅れ、1月の中ごろ、やっと到着したときには、私は2本のパラマウント映画の字幕を仕上げていた。田村さんが着いてからも、さらに2本の映画のスーパー字幕をつくった。
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おそらく、十数年前、版権会社MCAがパラマウントやユニバーサルの在庫映画の版権を買いあさったことがあったので、そのときにユニバーサルに権利がうつったのであろう。私たちは日本語スーパー字幕がとりいれられたのが当時のパラマウント日本代表トム・D・カクレンの英断によるものであることを知っているので、『モロッコ』の台本にユニバーサルと大きな文字で記されていると、そんなバカなことが、といいたくなるのだ。台本の内容は変わっていない。
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いまのスーパー字幕をつくってみたいと考えている諸君と五十歩百歩といってよかった。私をMGMから引き抜いたのは日本語スーパー字幕の第1回作品『モロッコ』をつくった田村幸彦さんだった。パラマウント映画の日本語スーパー字幕は田村さんと私とでつくることになっていたのだが、田村さんのニューヨーク到着が遅れ、1月の中ごろ、やっと到着したときには、私は2本のパラマウント映画の字幕を仕上げていた。
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とたんに、試写を見ていた田村幸彦さんが「名訳じゃね」といった。田村さんは『モロッコ』にスーパー字幕をつけた大先輩で、私たちはいまでも田村さんがきめた日本語スーパー字幕のつくり方にしたがって字幕をつくっている。私にとっては師匠でもあるわけだが、思ったことをずばりと口にするくせがあり、試写中に「誤訳じゃよ」などといって、立ち会っているスーパー字幕屋をくさらせることもある。
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とにかく、『モロッコ』は初めて日本語スーパー字幕がついた外国映画で、スーパー字幕屋という新しい職業の産みの親、映画説明者という人気稼業を消滅させた張本人なのである。
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昭和6年、外国映画のせりふが日本語スーパー字幕になって、画面にあらわれるようになってから57年、スーパー字幕の世界で初めてという事件が起こった。事件そのものはきわめて特殊なものだけれど、とにかく、スーパー字幕の世界で初めての事件なのだから、一応、記録しておかなければなるまい。
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「キネマ旬報」の原稿を日本に送った後だったことを悔やんだろう。初めて日本語スーパー字幕を世に問うのだ。試行錯誤があってもふしぎはないのだ。
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各社それぞれ、試行錯誤をくりかえしていたのだろう。角川書店版「トーキーは世界をめざす」には「字幕スーパーの誕生」という1章があり、みなさん先刻ごぞんじの『モロッコ』に日本語スーパー字幕がつけられた事情が述べられている。そのなかにスーパー字幕がついた『モロッコ』のスチルが掲載されている。
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