斯道文庫
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名詞
54 の例文
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ともかく、或いは先生御自身、既に体の変調を自覚され、何らかの予兆のようなものを感じとっておられたのかもしれない。夜の斯道文庫には、私と先生の他に、周囲には誰も居なかった。先生はいくらか疲れたような表情で机に肘をつき、ぽつりとこんなことを漏らされたことがある。
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いわば、両先生は、相拮抗しながら、しかし、お互いの良いところも認めあっていたらしく思われる。私は、ちょうど良い時代の斯道文庫で学問に接し得たので、思えば大きな幸いにめぐりあわせたものである。ともあれ私は、阿部先生の弟子であり、同時にまた太田先生の弟子でもあったのである。
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またある時はアメリカからお帰りになったばかりで、カウボーイのような白い帽子をかぶって意気揚々と斯道文庫に現れた。そうして「これが、テンガロン・ハットさぁ」とおどけられて森先生などを呆れ顔にさせたこともあった。
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その誼みで、亀井先生は、ずっと慶應で国語学を講じて下さったので、私ども末輩の者も又、その講筵に侍する事を得たのである。一時期、森先生は、慶應斯道文庫の文庫長をして居られたことがある。凡そ斯道文庫の長として、森先生ほどの適材はまたとなかったのではあるまいかと、今にして私は、あの春風駘蕩たる空気を想起する。
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今度は褒められて素直に嬉しかった。のちにこの初印の本はもう一本発見されて、今慶應の斯道文庫にあるが、それも不思議に巻六だけの端本である。
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私は、それがどうしてであるか、正確には理解できなかったけれど、斯道文庫が私を後任に採用する気がないだろうことを、この松本先生の面色から察知したのだった。「たぶん、ダメだろう」 私は、天を仰いで長大息した。
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それは世の趨勢というものであって、私などが一人二人で努力したところで狂瀾を既倒に廻らすことも成りがたい。阿部先生の弟子は、斯道文庫の大沼晴暉さんをはじめとして優れた方が何人かはおられるけれど、いずれも私よりは年長の兄弟子ばかりで、言ってみれば私がいちばん末の弟子である。
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しかも阿部先生亡きあと、その学問を継承し発展させる責務が私にはあるという気負いもあった。東横短大で、いちおう安定した生活をこそ保証されていたけれど、斯道文庫に入りたいという思いは、一日として止むときがなかった。いよいよその人事選考の時が、近づいてくる。
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過ぎ去って行った過去の夢に、いつまで恋々として、何になるであろう。私は、斯道文庫が私の力を認めないのならば、自ら死力を尽くして、それを世界に問うてみよう、と大げさにいえばそういう風に思った。何もかも、すべてがご破算である。
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これが先生の読まれた最後の書物である。今、その本は、その旨を注記して、最後の栞を糊付けし、先生の学問の城であった斯道文庫に保管されている。
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一時期、森先生は、慶應斯道文庫の文庫長をして居られたことがある。凡そ斯道文庫の長として、森先生ほどの適材はまたとなかったのではあるまいかと、今にして私は、あの春風駘蕩たる空気を想起する。森先生は、御自身は、それほど熱烈に研究に励まれたというわけでもなく、言ってみれば酒杯を片手に心底文学を甘なわれた方だと評しても、当らざること遠しとはせぬであろうと思われる。
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斯道文庫と魚津、がそれである。けれども、斯道文庫は、念願ではあっても、なおその実現は雲を掴むように覚束ない。しかし、魚津は、このままいけばきっと実現に及ぶであろう。
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それでも、やはり私の頭の中心には、いつでも斯道文庫の研究員になる夢が居座っていて、それがこの喜びにちくちくと突き刺さった。やっぱり、斯道文庫で阿部先生の跡を継いで書誌学の研究を大成したい、本当をいえば、それが私の何よりの願いだった。人生の皮肉は、しかし、この東横短大という大学が私にとっては、その後の進路を左右する大きなステップとなったということである。
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私は妻と二人で、そのことを素直に喜びながら、七十歳になった自分たちを無邪気に想像したりした。それでも、やはり私の頭の中心には、いつでも斯道文庫の研究員になる夢が居座っていて、それがこの喜びにちくちくと突き刺さった。やっぱり、斯道文庫で阿部先生の跡を継いで書誌学の研究を大成したい、本当をいえば、それが私の何よりの願いだった。
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これももう二十年以上前のことになる。斯道文庫がトヨタ財団から巨額の助成を受けたことがある。正確な金額は忘れてしまったが、たしか総額二千万円を越えていたように記憶する。
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そういう状況のなかで、私は森先生に従って大学院を退学したのである。むろん、当時の私には、斯道文庫の助手になることが最大の念願だったけれど、いっぽうで女子高の先生となって、英才を教育することに一生を費やすのもそれはそれで楽しい天地であるような気がした。私はこの慶應女子高という学校が大好きだったのである。
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そうして、第二は文献学・中国文学の太田次男先生である。この二人の師は、長幼二歳違いで、いずれも慶應義塾大学の附属研究所「斯道文庫」の教授であった。この斯道文庫というところは、和漢古典の文献学的研究のみに特化した数少ない人文系研究所の一つで、慶應義塾という学校法人の内部に、一個独立の存在として特異なる位置を占める。
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