斯道
133 の例文
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こうした巷説にもかかわらず瀬谷が展覧会へ出品した片野の菊は、稀有の名花として好事家連を驚倒させた。その評判を聞いて斯道の専門家達がはるばる都から観に来たくらいである。片野の果樹園は失踪した彼の息子の行方が分るまで、親友の葬儀をとり行ってやった瀬谷の監理にまかされることになった。
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そのような幾通かの来信によってはじまった交際のうち、私をもっとも感動させたのは、高知大学農学部の中川進先生であった。先生は年こそ私よりお若いが、斯道では文句なく先輩格といってよい。私がトライしたかまぼこ、ハムはもちろん、バター、チーズ、ベーコン、ソーセージ、ジャム、塩コンブ、手打ちうどんなどの自製から、最近は豆腐の自家製造まで開始されている、ときいては、中途半端の私なぞ、兜をぬがざるをえない大人物である。
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それに龍造寺其他の諸士が、いづれも裃で並んでゐる前で、九華が家臣某に扮して『屋嶋』の仕舞を見せるので有つた。九華は斯道では大分苦労をしてゐるので、本行と来ては普通の俳優以上。
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その芸談はじゅんじゅんとして尽きない。いずれも斯道の訓言であったが、私は今ここに芸談を紹介する余裕がない。
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泰州出身の清濬は慶元で『混一疆理図』を作成した。重要な文献を残したことで知られる烏斯道もまた慶元出身であった。当時から寧波は重要な港の1つであり、福州、広州、東南アジア、日本、高麗と交易があった。
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自分の意見をどこまでも主張する人である。女子の斯道にもこんな大先輩があったらと羨ましく思われる。
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それから、今日においても別に何んのお役に立ったこともありませんが、今日も引き続き帝室技芸員として恩典にあずかっているのであります。心ばかりは、何かと斯道のために尽くしたいものであると思いおる次第であります。ついでながら今日の帝室技芸員で在京の人々の顔触れをいって置きましょう。
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もっとも、同じことがすでに烏斯道による春草斎集でなされている。烏斯道は『広輪図』と李汝霖による『声教被化図』の統合を試みている。広輪図とは先に見た『広輪疆理図』のことと考えられている。
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さうして気が向けば、いくらでも、蔵から出して来て、客の前に陳べたものである。父の御蔭で、代助は多少斯道に好悪を有てる様になつてゐた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。
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もっとも、後に述べる烏斯道の言からは声教広被図が清濬の地図よりも新しい可能性もある。道士の清浚が作った『混一疆理図』もまた失われている。
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要するに甚だ儀礼的なそれは所作としか一般にはうつらない。斯道をきわめた者だけが、間合の取り方ひとつにも滋味を見出し得るのである。紅白試合は、鉢巻に紅と白の手拭を用い、白襷に素面素籠手、木刀を携えて互いに道場内に相対して勝負する。
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故人は戦前戦後をつうじて四十年近く、斯道一本にうちこんできた人であった。いわば地の塩であった。
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明治十六年九月の建立にして、竹本及び斯道の人々の寄付なり。題字は八世其角堂の筆。
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あたかもよし金田一耕助という斯道の天才が来合わせているのである。しかも、その金田一耕助もこの事件に、かなりふかい興味と関心をよせているらしい。
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こんな風に身体中不潔だらけの法院長は、その趣味もまた身体にふさわしく下劣きわまるものだったから、そばへ寄れば実に悪臭芬々たる有様で、誰からも嫌われるような人物だった。しかし斯道の人たちは、こんなつまらないことで眉をひそめるような人たちではなく、彼らだけが法院長に口をきいたのである。この法院長ほど、下劣で放埒な人物は滅多にいなかった。
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興津の太田三男氏等の厚誼によつて、本書をその実物で飾るに至つたことは感謝の至りである。製作したのは永年斯道に尽瘁された山本国蔵氏の技による。別に経木綿糸、緯楮糸の紙布を添へた。
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李氏朝鮮で作られた地図の意義は、2つの中国地図を結合したことにあるだろう。もっとも、同じことがすでに烏斯道による春草斎集でなされている。烏斯道は『広輪図』と李汝霖による『声教被化図』の統合を試みている。
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儞がもし之以上斯の道の蘊奧を極めたいと望むならば、ゆいて西の方大行の嶮に攀ぢ、霍山の頂を極めよ。そこには甘蠅老師とて古今を曠しうする斯道の大家がをられる筈。老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆ど兒戲に類する。
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「弘道館記」に曰く、上古に神聖が皇位を立て皇統を垂れ、これによって天地は位置し万物は育成する。それが全宇宙に照臨し宇宙内を統御する所以は、今まで「斯道」に依ってきた。
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恁くて互に其の間に考案する隙ありき。さすがに斯道の達人とて、積薪は耳を澄して、密かに其の戰を聞居たり。時四更に至りて、姑の曰く、お前、おまけだね、勝つたが九目だけと。
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さて、若いマフムードとアフマドの細君との間の、この最初の邂逅は、二人にとってはなはだ愉快に行なわれました。まだ童貞で経験のない若者は、斯道に精通したエジプト女の腕と脚の間に抱かれる快楽を、十二分に満喫しました。二人はお互いにすっかり相手に満足したので、次々の日の営みを幾度も繰り返しました。
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不思議に思ってあらためると、笛のなかにはこんな文字が刻みつけられていた。九百九十年 終 浜主 喜兵衛は斯道の研究者であるだけに、浜主の名を知っていた。尾張の連浜主はわが朝に初めて笛をひろめた人で斯道の開祖として仰がれている。
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尾張の連浜主はわが朝に初めて笛をひろめた人で斯道の開祖として仰がれている。ことしは天保九年で、今から逆算すると九百九十年前は仁明天皇の嘉祥元年、すなわちかの浜主が宮中に笛を奏したという承和十二年から四年目に相当する。
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けれども彼は斯道にかけては全くの門外漢であつた。從つて、此より以上明瞭な考も浮ばなかつた。
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不折の如きも近来評判がよいので彼等の妬みを買い既に今度仏国博覧会へ出品する積りの作も審査官の黒田等が仕様もあろうに零点をつけて不合格にしてしまったそうだ。こう云う風であるから真面目に熱心に斯道の研究をしようと云う考えはなく少しく名が出れば肖像でも画いて黄白を貪ろうと云うさもしい奴ばかりで、中にたまたま不折のような熱心家はあるが貧乏であるから思うように研究が出来ぬ。そこらの車夫でもモデルに雇うとなると一日五十銭も取る。
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儞がもしこれ以上この道の蘊奥を極めたいと望むならば、ゆいて西の方大行の嶮に攀じ、霍山の頂を極めよ。そこには甘蠅老師とて古今を曠しゅうする斯道の大家がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯に類する。
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さよう、これにも進歩が見えますよ。ふと見ると、可愛いらしく着飾った十三くらいの女の子が、斯道の名手と一緒に踊っている。別に二人の一組が、娘の前で踊っている。
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学者達は、文献上の根拠こそないが、金士衡が1399年に中国に旅行をした際、この2種類の中国地図を手に入れたものと考えている。別の可能性として、権近の奥付から類推すると、烏斯道の業績を含めていくつかの機会に亘って少しずつ地図が集められたとも考えられる。権近は、朝鮮半島の地理に関しては、李沢民の地図が不正確であると考えた。
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