斯界
136 の例文
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院に在学中はできのよくない学生であったと手紙にありましたが、なかなかどうして、遠藤くんの言語に対するセンスは抜群でした。きっと優秀な翻訳家になって、斯界でもある種の注目をされることでしょう。カリフォルニア州立大学では、ぜひ遠藤くんの持ち味を生かして勉強にも恋愛にも運動にもはりきってください。
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書画なども北大路魯山人ら斯界の第一人者から評価を受けることになる。瀬戸内寂聴は亀岡で出口直日と対談し、王仁三郎の陶芸作品に接して「王仁三郎の心臓」と評した。
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ここまで判っているのだから、近いものがあればだいたい見当がつくんだそうだ。そういう斯界の権威ともなれば、新種情報は細かく入ってくるだろう。
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斯界の最高権威となったヒルミ夫人は、一昨年ついに結婚生活に入った。その三国一の花婿さまは、夫人より五つ下の二十五になる若い男だった。
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見事な手蹟で明細に書いてある。これらはみな未出版だが、斯界に取っては貴重な文献である。翁の歿したのは大正五年十二月、その一カ月ほど前、ある席で懐中から小冊子を取り出し「これは君にあげるつもりでようやく探しだした」とわざわざ恵まれたのは『宮詣り東のつと』という潮来の細見で狂歌人の絵本、しかも文久二年後の種彦求之と書入れがある。
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日ごろ加十を軽蔑してあるかなしかの取扱いをする朝日や日々の奴等を茫然自失させることが出来るのである。そして夕陽新聞の古市加十の名は一躍して斯界に轟きわたるのである。と思うだに胸が躍る。
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眼の前に、興味津々といった表情の、可憐な女学生が、セーラー服姿でいる。そしてわが身には、斯界でも屈指のテクニシャンの愛撫が加えられるのだ。これはまさに、考えられる限りの猥褻な状態ではないか、部屋にこもる匂いの元凶は女学生らしく、そのかたまったあたりから濃厚にただよってくる。
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その国立に私も住むことになった。斯界の大先輩の住む町にうつり住むにあたって、私は挨拶に伺った。扇谷さんの住む場所は国立といっても国立駅の北側で、駅のすぐ近くではあるが、行政区画では国分寺で、それも平兵衛新田というところであった。
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一九七三年九月二十一日、ときあたかもお彼岸で、眠るがごとき大往生であったという。さすが斯界の最長老とあって、どの新聞もかなり大きなスペースをさいてその死を伝えた。いわゆる社会面のトップに十段ぬきの記事を載せた、九月二十一日付夕刊の「朝日新開」から、リードとよばれる冒頭部をひいてみる。
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全ての新聞俳句選者で最も若い49歳での就任には、斯界の刷新を期待されている。
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利かぬ気の小住はこの「五厘」の不公平を憤慨して、ついに二十五、六年頃、小土佐をはじめ、清玉、鹿の子、鶴蝶等と共に断然反旗を翻し、正義派というのを起して睦派に対抗した。女義始まって以来の問題で、かなり斯界を騒がせたが。なにしろ一流の寄席は睦派に占められていたので、正義派は二流三流の席へしか出られぬことになったが、もちろん覚悟の上と頑張って贔屓連の同情を力に、この対抗は相当長く続いた。
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当時一般世人から軽蔑されたスピリチュアリズムが、漸く堅実なる地歩を、天下に占むるに至ったことにつきてはモーゼスの功労が、どれ丈け与って力あるか測り知れないものがある。彼は正しく斯界の権威であると同時に、大恩人でもあった。さてこの『霊訓』であるが、これにつきては、モーゼス自身が、その序文の中で細大を物語っているから、参考の為めに、その要所を抄出することにする。
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学問もない、見識もない、自分の事業に関する経験や智能のない、大局の見えない彼等と比べて見ては、俺はたしかに独歩の出来る才人であるとも云ひ得られる。足を斯界に投じてまだやつと五年にしかならないのに、世間は俺を一廉の働手にしてしまつた。俺は欝然としてもう一家をなした。
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顔は青いというわけではないが、剃ったばかりのときでも、濃い、黒いひげがのびているため、青いように見えるのだった。三十歳をまだいくらも越していないのに、斯界では最高の学者の一人として、ひろく知られていた。兢売のあと、スコットがデュケーヌの研究室に行ってみると、博士はホワッチトロンの肘木によりかかっていて、温かみのない、しかしハンサムな顔が、ホワッチトロンの緑いろがかった青い光で、なんともいえない色に照らしだされていた。
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ひょっとして、この船、斯界では知る人ぞ知るっていう有名人じゃないの?
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奈良学芸大学学長等を歴任。能楽研究の分野では膨大な史料を分析的に使う手法と卓抜した創見で斯界に一時代を画した。京都府北桑田郡山国村に生まれる。
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だがそこには嘲笑と雑言の声のみ多くしてしんみりと理解をしてくれる者がなかった。ことに遺憾なのは先輩にあたる斯界の大家連中の浅薄な臆断である。その日のことは忘れもしない。
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そして今私の手許に勒せられているその方言が既に相当な多数に上りノートブック十冊位の分量に達しているが、これは皆私自身と他から親切にも報告してくれた協力者との結晶である。私は早晩それを一書に編成する事を期し、延てはこれを印刷に附しいささか斯界に貢献したいと願念している。今日わが植物界の人々は何故か余り植物の方言には重きをおいていないように感ずる。
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社会的活動の方面をも怠らず、議院建築問題の際には堂々の筆陣を張って斯界に警鐘を打った事もある。また建築学会の役員として数回の役員当選し会運営の尽力を惜まぬほか、日本建築士会や衛生工業協会等の役員として常に重任を帯び又照明学会、国民美術協会等の会員にも名を連ねた。
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ところが、私は看板をかけておりませんので、世間から見る私の仕事はどこまで行っても、相変らず素人としてしか通用いたしません。料理なども少年時代から道楽しておりますが、やはり素人としてしか斯界では許してくれません。客人などがあってご馳走したりする時、料理職人を呼んで手伝いをさせますと、女中などは料理人のする低級な仕事に感心して、一生懸命見て学びますが、私のやる料理などは旦那のやる素人芸として、とんと重きをおいてくれません。
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切羽詰っての恵まれた時代がやって来たようである。それには、この際を期して、斯界に一大革新運動を起こしてかかる要が必死の間題であろうと私は思っている。わが国現在の美的陶磁器という製品は、一般にどのような息づかいをなしいるものであろうかを、私は十年虫を殺して、埒の外から凝っと見詰め通して来た一人であるが、さてその光景や如何にと今それを語らんとするに当って、今更の如く遺憾を感ぜざるを得ない。
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ナポリ地震に関してのマレット氏の研究が参照されたり、トマス・ヤング博士やミルン教授の見解も引用されていた。このジョン・ミルン教授は日本地震学会を創設した斯界の恩人だ。地震計をはじめとする数々の業績が逆に西欧に普及するという助っ人外人の鑑だった。
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其当時は随分元気で自ら陣頭に立つて、吾国詩歌壇の為に万丈の気を吐いてをられました。詩歌懇話会が多少とも斯界に貢献するところがあつたとすれば、これは一に先生の此の意気此の迫力のお蔭と云はねばなりません。
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のりやの広告ででもあつたものか。この絵は、現存六十翁の斯界の先達が、壮年のころに執筆した大作だつたといふことである。その人の名を長谷川カズヲといふ由。
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日映を辞したのちは東急資本による東横映画、さらに東京映画配給の「第四系統」に参画するが、公職追放により辞任。追放解除の頃には肺結核が悪化、斯界から引退した。戦前から戦後まで古野伊之助、甘粕正彦、五島慶太という大物の影響力を利用しながら、迫害された映画人を徹底して庇護した根岸に対して、現在まで「左翼」との評価が根強く残っている。
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アカデミズムでは、自分の論文が斯界の権威ある学術雑誌で引用されていればされているほどその研究者が価値のある存在として扱われるという風習がある。自然科学や経済学ではそれが論文の「被引用回数」という形で定量的にシステム化されており、人文・社会科学系でもそこまで露骨でなくとも自分の論文が引用されることを評価する価値観は存在する。
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その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に造詣が深く、美術骨董界に貢献した。書道と南画をよくし、また漢詩、俳句にも親しんだ。
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本邦の氷河問題を繞って、学界に論争の花を咲かせ、波瀾を捲き起したのも、三十五年頃からである。山崎直方博士の白馬岳の氷河遺跡に関する講演が斯界に投げられた種となったのであった。此論争は後までも続いて、次第に登山者の注意を惹くようになった。
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