御霊社
24 の例文
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一方勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかっため、「弓矢の道」に背いたと激しい非難を受けた。御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就側は釈迦堂から出兵して政長を攻撃した。
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それによれば、現在の県庁駐車場に本丸御殿があり、南東部以外は堀で囲まれていた。本丸御殿の東は御霊社が祀られていたほか、弾薬庫や役所があった。本丸御殿の南は庭園、南西は馬場や鉄砲場、武器庫などがあり、軍事的空間だったことがうかがえる。
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一月十八日の未明、万里小路の政長邸から火の手があがった。政長が邸に火をかけ、御霊社の森に陣をとった。これに義就軍が攻撃をかける。
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明治二年正月五日の午後である。太政官を退出した横井平四郎の駕籠が、寺町を御霊社の南まで来掛かつた。駕籠の両脇には門人横山助之丞と下津鹿之介とが引き添つてゐる。
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昭和20年7月26日、徳山大空襲によって消失。昭和35年11月、毛利家の寄付を受けて旧毛利邸内御霊社に再建された。主要祭典として4月3日に例祭が行われる。
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政親の死後、家督は実弟の親治が継承し、家中の混乱を収めた。のち天文7年、家臣であった小倉氏が臼杵市戸室に御霊社を建立し、政親の霊を祀っている。名前の2文字目「親」の字は元々、大友氏一族の通字として用いられている字であるため、これに該当する家系に関しては省略、明らかに政親の代にこの字を賜っていると思われる人物のみを掲載する。
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元興寺五重塔跡の南西に鎮座し、井上皇后・他戸親王等八所大神を祀っている。西紀寺町の崇道天皇社とともに南都二大御霊社とされる。新都である平安京で疫病が流行し、その原因は怨霊であるとした桓武天皇は、旧都である平城京の3つの入り口にそれぞれ、上つ道には早良親王を祀る崇道天皇社、下つ道には他戸親王を祀る他戸御霊社、そして中つ道には井上皇后を祀る当社・井上御霊社を造営することとした。
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そして事体容易ならずと思惟し、親兵団の事を抛つて、横井を刺すことを謀つたのださうである。四郎左衛門等の横井を刺した地は丸太町と寺町との交叉点を南に下り、既に御霊社の前を過ぎて、未だ光堂の前に至らざる間であつたと云ふ。此考証は南純一の風聞録に拠る。
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同寺東北に鎮座。薬師堂町の御霊神社とともに南都二大御霊社とされる。平城天皇の大同元年の草創と伝わる。
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林城落城後に焼失したと記録があり、戦国時代末期に松本藩主石川数正の命により女鳥羽川近くに移転するが、詳しい年代は不明。石川康長の代に菩提寺として石川数正の御霊社を祀っていたが、江戸時代の伊勢町の火事により焼失。その後藩主となった小笠原秀政は寺領10石を寄進している。
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ただし長尾景茂は1247年の宝治合戦で戦死した人物であるため、誤伝ともされる。なお、城跡の北東山麓にある御霊社は、1093年に長尾氏の祖・長尾景村が建立したと伝わる。
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崇道天皇社、崇道神社等と呼称する場合や、「ソウドウ」と読み宗道神社惣戸神社等の字をあてる例もある。藤原種継暗殺連座の疑いを受け、淡路国配流の途上薨去され、その後祟りをなしたとされる早良親王を祀る神社であり、御霊社としての性格を強く持つ。淡路国から大和国八島に改葬された早良親王の陵墓である八島陵には、1886年まで早良親王を祀り慰める崇道天皇社が存在したが、同一の郷に属する近隣の町内にはそこから勧請したとみられる小社が残されている。
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新橋町、岡津町が鎌倉郡大島郷に比定されている。平安時代半ばの人物で鎌倉党の祖鎌倉景正を祀る「御霊社」「五霊社」が区内に存在する。大庭御厨を根拠とする鎌倉党のテリトリーであった可能性がある。
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幕府はこれら数々の怪異は「後鳥羽上皇の怨霊が引き起こしたもの」として、鶴岡八幡宮の山嶺に怨霊を鎮める御霊社を建立する事で事態の収拾を図った。
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だが、この時期には新天皇の外戚である近衛家が発言力が強く、また天皇自身も若い頃は学問熱心とは言えなかったため、兼香はその日記に近衛家への反発や新天皇への不満をたびたび記している。一方、享保17年に没した霊元法皇は兼香にとっては忠節・追慕の対象であり、崩御後に下御霊社が霊元法皇に「天中柱皇神」の神号を授けられて合祀されると、兼香は度々同社で開かれる「天中柱皇神」の祭祀に自らも参加するようになる。元文2年8月29日、父である中御門上皇を失って親政を開始した桜町天皇は左大臣であった兼香を関白に任じた。
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境内には樹齢180年樹高32mのイチョウおよび樹齢110年のシダレザクラがあり、横浜市の名木古木として指定されている。神奈川県神社庁によると元亀2年、当時の汲沢村が村岡郷に属していたことから、同郷の総鎮守であった宮前村の御霊社を勧請して創建。村岡良文、村岡公致、村岡致成を祭神とするが、後に鎌倉景成、鎌倉権五郎景政を合祀。
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その後、延暦2年から延暦4年にかけて一時的に少納言・右少弁と太政官の官房機関の官職を務めた他は、備中守・安芸守・大宰少弐・豊後守・大和守と桓武朝の前期から中期にかけて長く地方官を務めた。園人は百姓の立場から仁政をしく良吏であったらしく、国守として赴任した豊後国では、園人の善政と遺徳を頌える祠が建てられ、大分県日出町大神の御霊社に現存している。また、大和守の官職にあった延暦18年には、郡司について任務が大変な割に外考扱いで、子孫に対して恩恵を残す事ができず、十分な収益も得られない事から、郡司に任じても辞退者が続出して郡の行政に支障を来していたため、内考扱いとするよう言上し、朝廷より畿内5ヶ国について認められている。
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