庫裏
622 の例文
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写し終ると、再び大西坊へ忍び入って住持の居間をのぞいてみたが、まだ風呂から戻って来ていない。庫裏の方で住持が誰かと声高に話している声がきこえているだけである。いそいで、手紙をもとの場所へ置いて、文鎮でおさえてその足で、夕方のぼって来た坂道をすたすたと降った。
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老僧か、小坊主か納所かあるいは門番が凝性で大方日に三度くらい掃くのだろう。松を左右に見て半町ほど行くとつき当りが本堂で、その右が庫裏である。本堂の正面にも金泥の額が懸って、鳥の糞か、紙を噛んで叩きつけたのか点々と筆者の神聖を汚がしている。
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安土桃山時代、天川良尭が再興を志し、慶長元年に高山素玄寺2世格応門越を勧請開山として素玄寺末寺の曹洞宗寺院として中興を果たした。本堂、庫裏及び山門は享保年間に再建されたものが現在まで残っている。本堂のほかに地蔵堂、薬師堂及び観音堂がある。
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この用水は江戸時代から明治末年まで使われていた。現在一部が復元され、本堂と庫裏の間を流れる様子が再現されている。
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さて、引き返してきた男は、それからどこへ行ったのだろう。二度出ていった足跡がない以上、そいつは庫裏のなかへ入っていったことになる。
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また稲荷神や地蔵菩薩などが祀られている。聖宝の廟塔とされる宝塔は庫裏の裏より百貝岳に至る山道の途中にある。なお、庫裏の裏には宝塔のレプリカがある。
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故障を発見したのは、案内人の老人である。老人が執事寮でその報告をするのを、たまたま庫裏にいて私は聴いた。私は天の励ましの声を聴いたと思った。
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表門より入って左に庫裏があり、中門の先には玄関・客殿などがある。中門脇・本堂右手などに、石の古仏がいくつか見られる。
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近くの長良川には「小紅の渡し」があり、毎月21日の乙津寺の縁日は賑わう。女優の岡田奈々の姉が乙津寺の住職と結婚され、同寺のお庫裏さんである。寺院の最寄りにある岐阜乗合自動車「鏡島弘法前」バス停、または岐阜県道92号岐阜巣南大野線上の「鏡島精華3丁目」バス停が最寄りである。
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そこから一分もかからずに常隆寺の境内に入った。小学校の運動場ほどの広場の向こうに、本堂と、その右に庫裏がある。本堂はもちろんだが、庫裏も相当に古い建物だ。
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この寺の名物に紫蘇飯があり、紀州藩主が絶賛したという。本堂・庫裏・三重塔・弁天堂などの堂于は江戸時代後期に再建された。かつては近隣の小学生の遠足や行楽に訪れる人々も多かったが、現在は管理する者もなく荒廃してしまっており、地元の女性グループ「アグロマリン三重・ゆかり会」が復興を目指している。
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その時、戸の隙間から漏れる光に照しだされた人影は、疑いもなく不恰好な一寸法師に相違なかった。人影が庫裏の中に消えると、戸締りをするらしい金物の音がかすかに聞えた。もう疑う余地はなかった。
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要領だけ言っていつも奥へ這入ることが多かった。そのころから十年前に寺の庫裏から失火して、屋根へ火がぬけたことがあった。まだ宵のくちであったから、火はすぐに揉み消すことが出来た。
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庫裏を出た蔭山は、奥書院の礼の間までやって来たところだった。奥書院は頭を北に向けたT字形で、その右袖が、正面出入り口方向に近い礼の間となっている。
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南禅寺大方丈の庭園は瓦を頂いた築地塀によつて仕切られてゐるが、本来はその向うに借景として南禅寺山が見えた筈だ。今では庫裏の瓦屋根が山を隠して、庭はそれだけの空間として区切られてゐる。借景といふことは勿論作庭上の重要な要素に違ひないが、私はこの南禅寺の庭のやうな、限られた空間の中に永遠が凝縮されてゐる感じを、更に好む。
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この建物の特色は、水流をまたいで建てられていることで、境内が遣り水を配した庭園をなしていたことがわかる。他の2棟は庫裏や参籠所のような用途の建物とみられる。以上の建物群は14世紀半ばから15世紀半ばのものとみられ、この時期は安藤氏がこの地で栄えた時期と一致する。
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文久3年2月1日には、長府藩主の居城となったが、明治に入って知藩事が長府に再移住したのち、暫くは豊浦藩庁とされた後、明治6年に解体された。解体の際、建材の一部は移築され、長府の覚苑寺の庫裏・客殿となった。なお、本丸の石垣は良好な状態で現存していた。
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江戸時代、寛文5年に照運により再興された。この時に金堂・庫裏・大日堂・鐘楼・羅漢堂などが建立されている。寛文6年には唐招提寺の末寺となった。
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本尊は薬師如来。庫裏には源泉から温泉を引いて湯船が作られており誰でも参篭できるようになっている。期間は4月中旬から11月下旬まで。
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その前に入られたのは、中の郷の長源寺といふ寺、これも手口は同じことですが、奪られたのはほんの二三兩、住職がつましいので、金があるといふ評判に釣られた泥棒の失敗とわかりました。庫裏の雨戸の鋸目から、狸囃子が宵から聞えたことまで型の通りです。その前は旗本、瀬川壹岐、松倉町の大きい屋敷ですが、身分に耻ぢて屆出もしなかつたといふことで、平次も入つて見るわけにも行きませんが、手口にも狸囃子にも變りがなかつたことは、近所の人が證明してをります。
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江戸時代になると宝筐院は天龍寺の傘下に入り、その山外塔頭となっている。幕末には客殿と庫裏しかない状況となり、ついに廃寺とされている。
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寺は、山の上に本堂がありその中腹に庫裏があった。庫裏からは、私の家の屋根がよく見えるのだった。本堂正面の重い扉のなかには、国宝となっている、三体の十一面観音がまつられていた。
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やり切れない程の疲れを感じた。墓の前から空の閼伽桶を取り上げ、それを手に持って墓地の間の道をゆっくりと歩いて、寺の庫裏に達した。住職が遠くからのんびりした声で返事をして、廊下を踏む跫音を近づかせて暗い土間に姿を現した。
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「医王山」と額のあがった山門を入ると、境内は思いのほかひろく、右側にまず庫裏がある。庫裏の玄関さきには雲板がかかっていて、訪問客はこれをたたく趣向になっている。庫裏の左側、すなわち山門を入った正面に本堂があり、本堂につづいて左側に細長い禅堂が建っている。
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三千子も部屋の中で消失した。例の気味の悪い一寸法師は、養源寺の庫裏へはいったまま消えてなくなった。そして今夜は山野夫人の番だ。
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今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もないようだ。
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国宝黒地蔵尊の堂は押し潰されて、本尊菩薩は下敷となり給い、今にその負傷の程度すらわからぬ。ただ庫裏と、庫裏に続けて先年自分の建て添えた小座敷とのみはまず無事だ。住職大野秀文君は震災当時令息の入院に附き添って、横浜の病院におられたそうで、崩壊とともにやっと病人を担ぎ出して、逐い来る火焔を避けつつ、ともかくも無事引き揚げられたのだという。
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土地の豪家で北辰一刀流の達人、橋本久五郎という人物である。庫裏に人気が無かったので井戸端の閼伽桶へ水を汲み自分で提げて墓地へ行った。枯草の上に腰かけながら一人の今道心が書を読んでいる。
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