小兵
319 の例文
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見ていると、確かに小兵であるが、さっきから一度も投げられてはいない。相手が投げに来る前に、すうっと志田の重心が落ちて、投げられなくなってしまうのである。
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その頃は「双葉山の立合いに最も近付き得るのは輪島」とまで期待された。一方で小兵であったため変化をすることも多かった。ほとんどの場合は左に飛んでいたが、良く見て当たる瞬間に変わるので失敗率が低かった。
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四つ相撲であったが立合いから当たって出ても力を発揮した。小兵だったため十両では本来の相撲があまり見られず幕下と十両を往復する生活が続いた。
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翌1896年5月場所で新入幕。しかし小兵の上に、バクチ好きだった事が彼の現役生活に暗い影を落とした。
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唯一苦手としたのが、球界でも一・二を争う小兵の吉田義男であった。
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「もう琴は送り出したか」 武吉は、振り返り微笑した。小兵の武吉が、容貌魁偉な吉継に相対すると、大人と子供のようである。だが、席次は決まっている。
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この頃から期待のホープとして将来を嘱望された。しかし、小兵であったためなかなか力を発揮することが出来ず、幕下上位で苦労した。体重も段々増えだし、2003年には幕下上位でも安定した成績を残せるようになった。
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「ゆるふん」の対義語として顕著に固く締め込む「かたふん」という概念もあり、2代目若乃花、千代の富士、貴闘力、琴奨菊などがその代表である。多くの場合小兵が廻しを切りやすくするための努力として行う。相手の前袋を摑んで引いたり、横から指を突っ込むことは禁じ手とされている。
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ただし、後方に移動することはできない。兵と卒の字義はどちらも小兵であり、階級の最も低い軍人を表わす。
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因みに常陸海は預かり弟子を含めれば双葉山相撲道場初の入幕力士であった。小兵であったが腕力が強く、左を差しての投げを得意とした。入幕後応召され、海軍でも相撲を取っていた。
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年六場所制以後、V32の大鵬が三十歳十一カ月、V24の北の湖が三十一歳と、過去の二大横綱が引退していった同じ三十一歳になって、千代の富士全盛時代がやってきた。かつて小兵の栃錦がまさか横綱になるとは、だれも思わなかった。
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袴姿で、右手に、風呂敷包みを提げていた。小兵ではあるが、子供ではないとすぐに知れた。面構えがいい。
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ちょうど同じ夜の出来事である。岡山頭巾で顔を包んだ、小兵の武士が供もつれず、江戸の街を歩いていた。すると、その後を従けるようにして、十人ばかりの屈強の武士が、足音を盗んで近寄って来た。
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「お頼み申します」 その声を聴いて、玄関に出てきたのは、稽古衣を着た中田仙二郎と、佐川常一であった。玄関に立っていたのは、五尺一寸にも満たない小兵の漢であった。袴姿で、右手に、風呂敷包みを提げていた。
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この像を描けるのは武吉しかいない。吉継はもちろん、息子の元吉でさえも、この小兵の言う意味を理解できなかった。「隆景殿が安堵しておるとは、いかなることにござる」 元吉は問うたが、武吉がこういった直截の問いに答えることはほとんどない。
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もとより、そこにいるのは柔術家達であり、いずれも並の人間たちではない気配を身に纏っている。その小兵の男は、その中にあってなお、常人ではない気配をその短躯から放っているのである。着ているものは、襤褸であり、着ているものの袖や襟もほころびがある。
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以降、順調に番付を上げて行ったが、小兵だったため、幕下で長く苦労した。得意の右廻しを取ってからの寄りを磨き、小兵に対する強さも相俟って1988年9月場所から6場所連続して勝ち越しを続け、1989年9月場所に十両に昇進した。
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領土へ帰った後、小兵衛一族を、火あぶりにしても、なお、あきたらぬわ。
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無性に父に会いたい。あの赤銅色に日焼けした小兵の父に、自分を猫可愛がりする父に会いたい。「父上か」 元吉の顔がたちまち赤く染まった。
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翔猿は「他の力士がまねできない速い相撲を取りたい」と意気込んだ。日大の先輩である石浦との小兵対決を夢見ていることも同時に明かしている。しかし、新十両の場所は西十両14枚目で6勝9敗と負け越してしまい、壁に跳ね返された。
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そのとき、本当は身長が百七十センチなかった。その小兵で、若い頃から突き押しの激しい相撲を取ってきた。突っ張ると相手も突っ張ってくる。
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だが程なくして、多くの知己、それもあらゆる階層の友人がいるとわかった。そのひとりに、血色が悪く、黒目で、ネズミのような顔をした小兵の男がいる。レストレード氏というそうで、週に三、四回は訪ねてきた。
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歴代3位・通算31回の幕内最高優勝を果たしたほか、歴代3位の通算勝利数と同3位の幕内勝利数、1988年5月場所7日目から同年11月場所14日目までの53連勝など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱である。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いた。しかも、一直線にのぼりつめたエリートではなく、二度も平幕と十両を往復した苦労人である。
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一人は小兵で、蟹みたいな顔をし、一人は痩せて、胡瓜みたいな顔をした男たちであった。
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同じ一門の小兵幕内力士である炎鵬との精力的な稽古が伝えられた。途中から炎鵬との三番稽古になるほどで、炎鵬から張り手を受けてムキになるなどもした。
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第二試合は、揚心流戸塚派の大竹森吉と、関口新々流の仲段蔵の対戦である。始まって五分ほどは、小兵の仲段蔵が、大兵の大竹森吉を押した。火の出るような勢いで、段蔵が大竹を攻めた。
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親方は関脇が最高位でした。一七五センチ、一〇七キロの体は小兵の部類に入ります。得意技は蹴手繰り、裾払い、内掛け、外掛け、蹴返しといった足癖で、しばしば大物食いをしました。
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この地位でも好成績を挙げ続け、翌年10月場所で新入幕を果たした。体重90kgに満たない小兵であったが、左四つからの鋭い突き押しを得意とした。しかし幕内では苦戦し、1度も勝ち越せないまま、僅か2場所で十両に逆戻り。
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