専門棋士
30 の例文
(0.00 秒)
-
しかし専門棋士でこれを最初に試したのは、先の二世算哲であった。彼は当時の最強者・本因坊道策と対戦するにあたり、自らの天文学理論を応用して第一着を天元に打ち下ろした。
...
-
本作は作者自身も気に入っている作品なのか、つのだじろう公式サイトの表紙を飾ったこともある。前述の愛蔵版において、専門棋士達も以下のように評価している。中学生の駒形竜は、雇われ選手として草野球に参加したり、宿題を有料で手伝うというアルバイトの日々を過ごしていた。
...
-
今度やっては、もはや五目じゃ、とても勝てないだろう。私は専門棋士とやると、たいがい第一局は勝つことになっている。つまり私の布石がデタラメで、序盤にトンマな石ばかり打つから、みんな気の毒がって気をゆるめる。
...
-
名人上手に先二なら歩があるという評判であった。礼を厚うして各家元の専門棋士を招き、棋力は進んで五段格を許されていた。諸国の碁天狗どもが参覲交替で上京の折に盛名をきいて手合いに訪問すると、大そうなモテナシをうけるのはいいが、みんなコロコロ負かされてしまう。
...
-
戦前の将棋界においては、「専門棋士」と呼称されたプロには免状を発行しなかった。専門棋士が規定に基づいて昇段すると、昇段の事実と氏名が発表されるのみであった。戦後になって、プロにも免状を発行するように制度が変わった。
...
-
-
「金吾様も武蔵殿も腰がぬけたそうな」 といい出した。ついに開戦となったが、専門棋士と素人棋客の手合せみたいなものだ。北九州まで出かけてやりあったのであるが、他愛もなくやぶられて、日向路と肥後路の両道から潮のごとく攻めくだる秀吉の軍に追われて、敗北に敗北を重ねて、本国に逃げこんで、降伏ということになった。
...
-
若い頃は宗教や哲学に凝ったというが、戦後になって小唄、ゴルフ、ダンスなどを楽しむようになり、高川格にもゴルフを教えた。「吐き気を催すほど考えることができなければ専門棋士の資格がない」という語を残している。
...
-
本来和気アイアイなどといふものではあり得ない。なぜなら、将棋は専門棋士にとつては遊びではない。生命をさゝげた仕事、それに憑かれてゐるのだから。
...
-
それまでは互いの間の手合い割によって強さを表していたが、家元制度が確立して棋士が増えたこともあり、統一された基準が欲しいということになり、道策は名人・準名人もしくは名人上手間・上手を制定し、後に初段から九段までの段位が定められた。江戸時代は級位やアマチュア段位などは存在せず、専門棋士と素人の段位に区別は無かった。それだけに初段になるのも非常に厳しく、地方ならば初段・二段の免状があればそれを種に生活できたと言う。
...
-
将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに棋客に代わって、「専門棋士」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。大山康晴によれば、彼が少年の頃には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。
...
-
なお、四段以上の棋士は降段することがない。昭和9年に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった。
...
-
愛知県豊橋市大村に生まれる。父徳蔵は豊橋市生まれ、事業のために京都に移った後、1908年に本因坊家と方円社から二段を認められ、上京して専門棋士となった。
...
-
日夜少年の顔を眼に描いて、心待ちに待っていた。ところが大阪の新聞に専門棋士を七人抜いた天才少年棋士のことが載っていて、それがあの時の少年木村義雄と同姓同名であったのを見て私は不思議の感を催していたところ、それから一年後の年始状に将棋六段木村義雄と署名したのが届いた。そのとき私はさてはこういう人であったのか、それでは私をたよって朝鮮くんだりまでくるはずはないと思ったのである。
...
-
当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。大山康晴によれば、彼が少年の頃には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。実際にプロが「棋士」と自称するのが一般的になるのは大山や戦後のプロからと思われる。
...
-
明治初期に方円社に所属した水谷縫次も、それ以前には賭碁師として名を知られていた。大正に専門棋士として三段まで進んだ大阪の堀田忠弘はその後真剣師となって1982年に没するまで、プロ棋士もしばしば破る活躍で鬼と呼ばれた。いわゆる将棋指しが現れたのは室町時代後期とされるが、将棋の真剣師がいつごろ現れたかは定かではない。
...
-
専門棋士になるのが遅く、碁風も玄人らしくないということで「偉大なる素人」と呼ばれた。体躯五尺五寸七分、二十三貫目の偉丈夫、大声で天真爛漫の風であったという。
...
-
統一的な将棋連盟が結成されることによって、なおかつ新聞紙上に実戦対局棋譜を掲載することによって、対局料や賞金による安定的な収入が得られるようになった。将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに棋客に代わって、「専門棋士」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。
...