宗主国オランダ
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しかし、東インドの宗主国オランダは、インドネシアの独立を認めなかった。国内各地でインドネシアの武装勢力とオランダ軍とのあいだで武力衝突が頻発した。
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後は子のハメンクブウォノ9世が継いだ。皇太子を宗主国オランダの大学に留学させた。また、彼の時代に宮殿の多くの建物が修築された。
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除名後、カルトスウィルヨは党内の賛同者と共に「PSIIの真実の擁護委員会」を設立する。太平洋戦争に伴う日本軍の軍政下で、宗主国オランダを含む連合国の侵攻に対抗するため日本軍への協力を決め、ガルトで民兵を組織する。
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その最初期には、ジャワの医学校で学ぶ学生たちを中心に、1908年に結成されたブディ・ウトモのように、教育を通じてジャワ人の社会的地位を向上させようという、穏健な活動がはじめられた。また宗主国オランダでも、東インド出身の学生たちが東インド協会を結成し、出身地方の枠を超えた東インドの民族的一体感に目覚めていった。
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幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業した後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校に入学した。同校を1921年に卒業後、植民地の宗主国オランダが1920年にバンドンに創設した高等工業学校に入学。
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しかし、宗主国オランダは「インドネシア連邦共和国」の構想をもっており、ジャワ人の覇権を恐れるインドネシア地域の諸民族の支持をうけつつ、インドネシア共和国を同連邦の一部に組み込んでしまうことで勢力を維持することを狙った。インドネシア共和国とオランダの間で結ばれたこの協定は、両勢力の思惑が反映されたもので、主要な内容は以下の通りである。
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アジアでもっとも早く、合法的に結成された共産主義政党である。オランダ領東インドにおける共産主義運動の歴史を語るには、宗主国オランダから植民地東インドへ渡ったオランダ人社会主義者と、東インド在住の欧亜混血児たちの存在を抜きにすることは出来ない。なかでも、1913年3月、東インドに渡ったオランダ人ヘンドリクス・スネーフリートは、盟友アドルフ・バールスとともに、東インドに社会主義思想に普及させ、のちのインドネシア共産党の指導者となるスマウン、アリミンらの「原住民 Inlanders」活動家を育てた、という点で傑出した役割を果たした。
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のちにインドネシアになる地域では、ジャワ語、スンダ語など数多くの地方語が話されていたが、宗主国オランダからの独立を求める民族主義運動によって海峡マレー語がインドネシア民族の共通の言葉「インドネシア語」として採用され、独立後に国語となった。教育や放送はインドネシア語で行われるため普及しているが、母語率は現在でも1割程度であり、多くのインドネシア国民にとって新しい言語である。
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オランダ領東インド時代、植民地宗主国オランダをはじめとするヨーロッパ系の民間資本が、東スマトラ一帯でタバコ、ゴム、茶などのプランテーション農園を開発した。メダンはそれらの商品作物の中心的集荷地となり、各種企業や政府機関も進出して、スマトラ島東北部の中心地として発展したのである。
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なお、この時期、ハッタのすすめによって独立養成塾で講師をつとめている。終戦直後の1945年8月17日、スカルノとハッタが「民族の名において」インドネシアの独立を宣言し、同月22日、暫定的な代議機関として中央国民委員会が発足、インドネシアは宗主国オランダからの独立を達成するために、難しい内政と外交の舵取りに取り組んでいくことになった。
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