子福者
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名詞
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八幡太郎義家から三代めの源氏の大将を六条判官為義といいました。為義はたいそうな子福者で、男の子供だけでも十四五人もありました。
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これでは生きているのが苦痛である。それも子福者であるなら一人なくなっても、あとに慰めてくれるものもある。しかし親一人子一人の家族が半分欠けたら、瓢箪の中から折れたと同じようなものでしめ括りがつかぬ。
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夫人も和子も老いたる叔父叔母の輩まで嬉々として、侍女たちの顔から燈火の色まで華やぎ立ち、その陽気なことは到底、節句や正月の比ではない。わけて光秀は子福者で、女子は七女まで、男子は十二男まで持っている。もちろんそれらの子たちの三分の二はもう他家へ嫁いだり養子となっているが、まだまだ小さいのも幾人かいたし、叔母の子やら、誰れやらの孫というのも養っているので、夫人の煕子は、いつも笑って、と、述懐している程だった。
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私はあの時、その植物を用いる時は、どんなにやすやすと、少しの苦痛もなく堕胎を行なうことができるかについて、かなり誇張的な説明をしたはずである。それを聞いて、子福者のはらみ女は、そもそも何を考えるのが自然であるか。その子供を産むためには、苦しい中から幾干かの費用を支出しなければならぬ。
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あとで判ったのだが、桑田の父親は、大財閥系の倉庫会社の社長であった。十人の子福者で、女三人男七人、心中を遂げた六郎は、その六男にあたる。麻布中学から、上野の美校に入ったのが、終戦の一年前の年だったから、大正十五年生れであった。
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けれどラムジー夫人に元気づけられて、この日海岸へ散歩に出た時に、ついに恋を打ちあけ、そして二人は婚約者になるのである。滞在しているお客は以上の人々だが、ラムジー夫妻はまた、八人の子福者なのである。十九か二十歳くらいをかしらに、男が四人と、女が四人である。
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当時の将軍は、十一代家斉である。家斉は有名な子福者で、生涯に五十人余の子女をもうけたという。大作もいぜんは、将軍家若君のおひとかたにお側仕え、お覚えもしごくめでたかったが、どういう子細があったのか、三年ほどまえ大坂勤番を仰せつけられた。
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伊達政宗という人は子福者で、男の子十人、女の子四人あった。伊達騒動の悪玉の中心人物とされている伊達兵部宗勝は、その十番目の男の子である。
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あんな子福者であつたのかと云ふので、さ。君の詩などから推察してまだ二十四五までの色男だと思はれてゐたらしい。
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キムランの父親も、トモーポーにいた頃は町いちばんの金満家だった。キムランを最年長に十人の子供を持つ子福者でもあった。町の自宅は「赤いクメール」政府に接収され、地方視察幹部やときたま訪れる外国人の“迎賓館”として使用されているとのことだったが、マウ村ではむろん他の住民と同様、粗末な小屋に寝起きしていた。
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学識も深く政治的能力も抜群であり、源氏をのぞいてはまず、一の人と称してもよかった。夫人は多く、それぞれに生んだ子供たちが十余人もあって、源氏に比べると子福者である。ほとんど男の子たちで、次々に成人して相応に出世してゆき、源氏に劣らず家運の隆盛な一家であった。
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ただそれが誤用されて、不必要な有産階級に行なわれ、無産社会には、そんな運動の起こっているのを知らぬ者が多い。現にこの近所には貧民窟のような長屋があるのだが、そこではどの家も必要以上に子福者ばかりだ、というようなことを大いに論じたものである。それを論じながら、計らずも私の頭に浮かんできたのは、私の家のすぐ裏に住んでいる老郵便配達夫一家であった。
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どういう場所なのか、ともかく舟より速い、ということで、義雄氏が一里半の道を走って着替えを取りに行き、父はだんだん日の落ちてゆく海岸に裸でとり残されて、わずかに日の温みの残っている岩肌で暖をとるため、転々と岩にしがみつきながら、その帰りを待ったこともあった。美澤夫妻は子福者で、大家内なので、味噌汁でもなんでも、早いもの勝ちであった。朝は早く起きてお膳に坐って、おいしいところを食べなければならない。
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子福者小笠原伯爵の何番目かの娘さんが最近スポーツマンであった体躯肥大な某氏と結婚された写真が出ていた。月給は七十円だけれども、豪壮な新邸に住まわれるそうである。
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御子も多いことでありますのに、 といったこともある。精力漢の信秀は嫡子庶子ともに十二男七女という子福者で、この信長は次男であった。
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祖父は長寿の上に子福者で、七人の子どもがいた。そのうち五人が女で、みんなそれぞれ結構羽振りのいい暮らしをしている。
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でも、夫が後を欲しがっていることは知っていたし、自分にしても、姉ほどの子福者にはなれないとしても、女の子一人きりでは余り淋しく感じていたので、そうであってくれればよいがと願うところから、三月になったら念のために診て貰う積りではいたのであった。それで昨日、連れの人々が六甲越えをして行こうと云い出した時に、大事を取った方がよくはないかと、ふっとそんな気もしたのだけれども、何を阿呆らしいことをと、それを打ち消す気持の方が遥かに強く働いていたので、折角皆が楽しみにしているらしい計画に、反対する迄もないと思ったのであった。
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