奢侈好み
3 の例文
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しかし藩財政と庶民、家中の暮らしはその後も楽にはならず、むしろ悪化の道をたどっていた。そしていまは少なからざる人人が、その原因、藩を覆う悪しきものを藩主重定の政治的な無能と変らぬ奢侈好みの中に見ようとしていた。竹俣当綱を中心とする藩政改革派のように、明確に重定の施政を終らせて直丸を藩主とする新時代をひらこうとまでは思わなくとも、あるいは藩主重定がせめて遊興奢侈の暮らしをつつしんで藩政の指導に身をいれることをねがい、あるいは端的に重定の隠居をのぞむ者がふえてきていた。
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その説の真偽はともかく、吉良三郎改めのちの上杉綱憲を藩主に迎えたことは、米沢藩にとっては大きな失策を犯したことになるかも知れなかった。綱憲は成人するにしたがって、元来質実な上杉家の家風とは相容れない、高家の血を引く奢侈好みの性格を露わにして行くからである。三十万石の領土が半分の十五万石に減ったということは、ひと口に言えば家臣の俸禄も半分に減るということである。
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文化11年に鯖江藩主となり、11代将軍・徳川家斉の側近として奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを歴任する。天保11年、家斉の推薦で西丸老中となったが、天保の改革を行っていた水野忠邦に、奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれ、天保14年に老中を辞任した。その後、安政5年6月に南紀派の大老井伊直弼の下で再び老中に復帰し、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務する。
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