四書五経
235 の例文
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「范修、そなた、ひとつ科挙を受験してみる気はないか」 主人の言葉に、さすがの俺も目を剥いた。試験科目である四書五経など、手にしたこともないのだから当然だろう。
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四書五経やその外賢伝の書は、いずれも誠意治国の事を述べたのである。然るに君は誠意治国の大主旨はそっちのけにして、道楽半分に書物を読み、文章を綴っている。
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厳格な人物だった與一郎は、槍の名手で武道を好んだことから、宿子や子供たちに剣道を奨励した一方で、自宅に私塾を設けて宿子たちに勉強をさせた。金太郎も父の命で剣道を習い、宿子たちと修身や四書五経などを学んだ。
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旧制中学校時代から地域の教育を担ってきた福井県嶺北南部地域を代表する進学校。図書館には旧藩校「進修教校」の四書五経などの書籍が所蔵されている。スーパーサイエンスハイスクールに指定されている。
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案の定、豆本である。四書五経の注釈の類だろうか、一寸角ほどの小さな本を次々と机の上に並べていく。虎の巻を前にした陳護は、満足げな笑みを漏らし、独り言を言った。
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まるで腹には、何にもありやせん。あればまづ寺子屋の師匠でも云ひさうな、四書五経の講釈だけでげせう。だから又当世の事は、とんと御存じなしさ。
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わしは国元では、御役料もいただけぬ助教のはしっくれではござんしたが、子弟らには誠心、人たるものの道をば教えたつもりでござんす。四書五経をいかに学んでも、そんたなものは糞の役にも立ち申さぬ。何となれば、偉い先生はみなその教えを、忠の一字にすりかえて訓すゆえ。
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まるで腹には、何にもありやせん。あればまず寺子屋の師匠でも言いそうな、四書五経の講釈だけでげしょう。だからまた当世のことは、とんと御存じなしさ。
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早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ。地元の小学校に通い、1886年米湊村の高等小学校に編入した。
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田口は肉体的な後遺症と中国古典思想という、大事故がもたらした2つをもって、日本へ帰り、むさぼるように『老子』や『荘子』を読む。やがて関心は四書五経など中国古典思想全般へと広がった。
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春秋時代とそれに続く戦国時代の多くの学派のうちで、儒家、道家、墨家、法家の4学派が最も影響力が強かった。儒家は『四書五経』に収められた賢人たちの教えをもとに発展した。儒学は倫理的・社会的・政治学的・宗教的な体系であり、生まれてから21世紀にいたるまで中国の歴史・文化に膨大な影響を与えてきた。
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ジェームズ・レッグは、スコットランド出身のロンドン伝道協会の宣教師で、中国学者。四書五経をはじめとする儒教や道教の古典を英語に翻訳した。
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また、大工の子なら『商売往来』の代わりに『番匠往来』、百姓の子には『百姓往来』が与えられた。さらに進んで高等科へ入ると、稀れには四書五経から『文選』を学ぶ者もいた。女はいろはと数字から、主として手紙の書き方を教わった。
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司清三郎は、松平伊豆守信祝の推輓で、寄合旗本の三男から、小姓組番頭になった二十六歳の切れ者であった。五歳の時、四書五経をすらすらと読み下したことが、語り草になっている。湯島聖堂はじまって以来の俊才と称されている。
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四書五経の一つに数えられる大学に脩身の語がある。
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科試の初科は四書五経の知識を踏まえた上で出題されるのだ。
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それを基礎づけているのは、「思想がないという思想がある」という、この真空原理であるというしかない。明治維新を行ったのは、四書五経という、中国の古典教育を受けてきた世代である。それどころか、三百年近く、並みの日本人は中国の古典教育しか受けていない。
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例えば、男性の場合は千字文という中国の教育書であり、女性の場合は女大学という女性の心得についての書物であった。講義が行われることもあり、日付に一と六が入る一六の日には先生が四書五経などの本を用いて講義を行った。池田学問所に関する資料は、池田町文化財資料館内に関連資料が展示されている。
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私が個人的に接触した人との雑談から受けた印象でも、朝鮮には深く儒教文化が浸透しているようにみえました。日本でも儒教は、四書五経の教育を通じて、少数の武士の生活のなかにはいっていました。しかし、一般の町人、とくに農民のなかには儒教的な倫理とか世界観の影響はほとんどみられません。
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そしてそこでも、光國は彼らの議論に呆気にとられた。話題は四書五経から種々の和書に及び、おそろしく幅が広く、内容が深い。そして義直はその議論の向かう先を、もっぱら神道の教義に求めた。
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四書五経から習い初めたものに、なかなか儒教の殻はとれませんよ。
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だが、シーボルト事件の余波でわずか一年あまりで江戸に帰り、やがて藩から、江戸住みの学問稽古人を命じられて、一家を構えることになった。四書五経の研究が本業となって、蘭学者への道はあきらめなければならなくなった。しかし、外国への関心までが消えるわけではない。
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そのなかには、貸本の筆耕をして飲代にありついているのもありました。四書五経の講義ができるぐらいのものもありました。江戸で芝居という芝居を見つくしたと自慢するのもありました。
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多嘉良の案文はどこにも四書五経の文言が入っていない奇天烈候文だ。漏刻門から太鼓の音がした。
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これは中国でいちばん有名な笑話集「笑府」に載っている小咄である。易経は四書五経のなかでも最も重要な古典で、かつ、もっとも難解な書物とされている。
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この技を使い戦場では幾多の敵を倒し、援護射撃で仲間の危機を幾度も救っている。また弓以外にも槍の腕も優れており、四書五経にも精通し、計略も心得ている。この万能さから梁山泊の戦闘員では唯一、無敗の戦績を誇る。
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安永9年松平頼真によって藩校講道館が設立され、初代総裁に就任した。芝山が創始した四書五経の訓点は後藤点と呼ばれ、広く世間に知れ渡った。門人には柴野栗山らがいた。
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つまり根っから、町方の子らに混じって算盤をはじいていたのです。藩校で四書五経をつめこまれる藩士の子弟とはそのあたりがまずちがった。次に、嫡子の早逝によって迎え入れられた大野の家は、地方、つまり知行地を持っていた。
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