勧善懲悪史観
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こうした歴史学の発展の一方で、歴史学と国家主義的な歴史観との衝突も発生していた。歴史学が実証主義を重視しすぎ、歴史認識や史学方法論を軽んじたことも国家主義的な歴史観の台頭を許す一因となり、昭和期に入ると国粋主義的な天皇を中心とする歴史観や勧善懲悪史観が隆盛するに至った。第二次世界大戦の敗戦により、国家主義的な皇国史観は大きく後退を強いられ、歴史に普遍性を見出そうとする社会科学的な立場が主流となった。
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戦後の実証主義歴史学以前において御家騒動は、勧善懲悪史観から御家騒動に関わる人物の「忠臣」や「奸臣」といった儒教的評価による評論に終始していたが、戦後の実証研究では1965年に北島正元が『御家騒動』を刊行し、従来の実録・講談類の文芸作品による虚構を廃し、幕藩体制論の視点から個別の御家騒動を検討した。北島以降も御家騒動研究は、一次資料に依拠し勧善懲悪史観を離れた視点による方法論が基本となり、吉永昭は個別御家騒動に関する把握を行い、笠谷和比古は1988年に主君押込論を提唱した。また、福田千鶴は御家騒動の体系的な研究を行なっている。
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しかし江戸中期の徳川家宣の治世を経て、幕府は政策を改めて関与を徐々に減らし、19世紀はじめの仙石騒動を最後に、お家騒動への介入は行っていない。戦後の実証主義歴史学以前において御家騒動は、勧善懲悪史観から御家騒動に関わる人物の「忠臣」や「奸臣」といった儒教的評価による評論に終始していたが、戦後の実証研究では1965年に北島正元が『御家騒動』を刊行し、従来の実録・講談類の文芸作品による虚構を廃し、幕藩体制論の視点から個別の御家騒動を検討した。北島以降も御家騒動研究は、一次資料に依拠し勧善懲悪史観を離れた視点による方法論が基本となり、吉永昭は個別御家騒動に関する把握を行い、笠谷和比古は1988年に主君押込論を提唱した。
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