労咳
110 の例文
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おしのの最愛の父・喜兵衛が死んだ。婿に入って以来、遊びもせず身を粉にして働いた身体は労咳に蝕まれていた。一方、母・おそのは夫を避けて寮に移り住み、遊興に耽り、男を連れ込んで、不行跡を続けていた。
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そう思うことは耐えられなかった。労咳を病んだ鵜沼修理が、仇討の願望を放棄したのは二十七年目である。といって、断念してしまったわけでもなかった。
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好きで労咳持ちになったんじゃないじゃろが。
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多芸御所・具教は、半年ばかり前から、からだの衰えを感じ、労咳かも知れぬと思って、隠居していた大河内城を出て、暖かい内山里の館に移っていたのである。労咳ではなく、実は、すこしずつ、食膳に、毒を盛られていたのであった。信長に内通した木造具康、津川玄蕃允、田丸中務少輔ら伊勢四管領の北畠一族が、密議をこらして、その奸策を為したのである。
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いや、祖父の血をうけて名人かたぎだったお長は、じぶんの気にいった膚でないと、針をとらなかったから、仕事はむしろ、ありあまるほどあった。お長が労咳を病むにいたったのは、過労のためであるといわれている。
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おそらく、亡妻なおの病気が感染していたものであろう。当時、労咳は死病であって、しかも貧しい百姓の家では手当もとどかぬ。市蔵は三年も病気と闘ってから死んだ。
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処刑された死体から採取したものだった。労咳を病む者に処方すれば必ず効果があると言われていた。一服百疋と大層高直であるが、客は引きも切らずに買い求めるという。
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私は総司のような労咳持ちの女が肩身の狭い思いをしないですむような日本を作りたいのです。
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労咳にはいまの季節がいちばん悪いということぐらい、鈴之助も心得ていた。「そして、ほかにだれもいないのですか」 「はい、姉妹きりのさびしい暮らし、あの、どうしたらよろしゅうございましょう」 たよりなげなおろおろ声をきくと、鈴之助の気性として、そのままほうっておくわけにはいかなかった。
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病気があるんだ、食欲のないのは病気があるからだ。それもおそらく労咳であろうと、登はまえから推察していた。自分では気がつかずにいるのか、それとも、多くの病人がそうであるように、気づいていながら事実に眼をそむけているのか、どちらともはっきりとはわからない。
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結核、特に肺結核は労咳と呼ばれ、古くから日本に多く見られる病気の一つであった。平安時代、清少納言は『枕草子』のなかで「胸の病」について書き記しており、紫式部の『源氏物語』でも紫の上が胸の病を患い、光源氏が悲しむさまが描かれているが、これが結核であるかはわからない。
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うちはいま病気になりとうなか。もしどんげんしても労咳にかかるごとなっとるのなら、あと五年でよかけん、今のままでおりたかと。
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結核菌は1882年にロベルト・コッホによって発見された。日本では、明治初期まで肺結核は労咳と呼ばれていた。また最近まで、「肺病」とも言われていた。
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それからまもなくのことだった。労咳で病の床に伏している女がいて、隼斗の語った姉の特徴と似ているという知らせが禅吉の元に入った。それで、雇い人が確かめに行くことになったのだ。
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きわの血管にすっと黒い雲が走る。労咳のことを考えるたびに何時も不安な感じがつきまとうのだが、今は一層波立つ。おかしゃま、ときわは祈る。
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「私はそのときほどほどにしろと云ってやりました」と治兵衛は云った、「自分が病んで倒れるまで人にしてやるばかがあるか、ほどということを考えろ、ってどなりつけました」 佐八は済まないとあやまったそうである。彼を倒したのは労咳であったが、医者にかかろうともせず、十日ばかり寝ると、起きて仕事をはじめた。彼は治兵衛に向かって、これからは迷惑をかけないように気をつける、自分の身のことを考えるから、と約束したが、実際にはその約束を少しも守らなかった。
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日本においては、欧州での大流行から1世紀遅れた江戸時代末期から明治期にかけて、結核は国民病・亡国病とまで言われるほど猛威をふるった。日本では、明治初期まで肺結核を称して労咳と呼んだ。新選組の沖田総司、幕末の志士高杉晋作はともに肺結核のために病死した。
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風の噂では、労咳のためやっとの思いで掴んだ幸せさえ棒に振り、残りの人生を生き別れになった隼斗と会うことだけを楽しみに生きていると聞いていた。年老いた奉公人は急いで知らせに来てくれたのだろう、激しく肩で息をしながら隼斗の返事を待っていた。
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だが、晋作は、血を吐いたという。彼が不治の病である労咳におかされていたことを、いやおうなく認めないわけにはいかなかった。晋作が床から起きあがれなくなって、孝允は何度か下関へ見舞いに行った。
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北極出地をともにした伊藤重孝が逝去した。労咳らしいと噂で聞いたときはもう遅かった。慌てて見舞いに行くと、遺族は葬儀の準備をしていた。
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そして大抵の難病は薄紙をはぐように治るのだ。昨日まで働いていた小料理屋にくる客の話すのをきいて、きわはそれを知っていたが、すると労咳も養生所に行けば治すことができるのだろうか。
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そこで、灸をすえられたり、黒猫を抱かせられたりした。黒猫を抱いていると労咳がなおるという迷信があったのである。その病だに目違いな烏猫 という句がそれで、「その病」とは恋病、「だに」はだのにの略、「烏猫」とは黒猫のことである。
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「これは、労咳を病んでいたようじゃな」 と、小川宗哲。労咳は肺結核のことで、そのころは絶対に助からぬ死病だったといってよい。大治郎は、待たせておいた駕籠舁きに質問をした。
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代わって尾張清洲には、関ヶ原の戦いで井伊直政と共に抜け駆けの先鋒を果たし、西軍の島津豊久を討ち取るという武功を挙げた家康の四男・松平忠吉に62万石で与えられ、清洲藩が立藩した。しかし忠吉は慶長12年3月5日、江戸の芝浦で労咳のために急死する。忠吉には継嗣が無かったため、忠吉の異母弟・義利が入るが、義直は新たに名古屋城を築城して藩庁や城下町を移設し、名古屋藩を立藩する。
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まだ宵のうちじゃったがな。もう長いこと労咳でわしがめんどうみていた無宿者の老人が、急にゆうべ変が来たというて呼び迎いに参ったのでな。
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事前の手配りが細密であっただけに、上洛軍の発進を中止すれば天下に武田への疑念があふれてしまう。宿痾の労咳に大事をとっただけである。そういう情報を流した。
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「おのれ、戦んなったや手当たい次第エゲレス人の胆を引っこやして、人丹に作ってくるっ」 と下帯だけの姿になってわめいた者もいたのは、薩摩には敵の戦死者から胆を抜き、その人胆すなわち人丹から丸薬をこしらえる習俗があるためだった。これは労咳に効能があり、また臨終の近い者の口にふくませれば蘇生することもままあるという。これらの姿も「ユーリアラス」その他の望遠鏡に捕捉されていたが、薩摩側がそれを知るのははるか後年のことである。
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妻を持つのは、おそすぎるくらいである。与五衛門は、労咳で十年近くも、寝ていたのである。
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