仁術
全て
名詞
38 の例文
(0.00 秒)
-
臨床的な、そういう過失の体験を経てはじめて、この病人にはこれ程と適量の劇薬を調合し得る。医が仁術となるのは謂ばそんな体験よりの懺悔をともなう故であろう。自分は、これ迄にもそうは思いながら万一を怖れて今一匙の薬を盛る勇気なく、却って病人を激痛に喘がしめ、死に至らしめた。
...
-
そのことについては、他日、その機を得て感謝する時があろうと思います。医者は、仁術であるべきであるが、独り、このことを医者だけに求めるべきものでない。そんなら、今後、医者は、何うなるべきであるか。
...
-
稀だからこそ大層な評判になるのである。それでも時たまこういうことをしておけば「あの先生は仁術だ」ということでぱっと人気がでる。庶民は人づき合いが多いから彼等を宣伝の具に使うのは一番手っ取り早い。
...
-
爾来、医者は仁術と言われておりまして、社会民衆のために努力するのが、その使命でありますにかかわらず、今日の彼らはただ金を多く儲けさえすればよいというだけのことになっております。彼らは個人個人に対する医術は知っていても、社会病理に対する診断をなし得ないのであります。
...
-
後に私が病気した時、どんなに我を忘れて世話してくれたろう。医者は仁術というが、恭一君のはぴったりそれであった。
...
-
-
本格の芸術の使命は実に「生」を学び、「人間」を開顕して、新しき「いのち」を創造するところに在る。斯るときに於てはじめて芸術は人類に必需で、自他共に恵沢を与えられる仁術となる。一時の人気や枝葉の美に戸惑ってはいけない。
...
-
加えて、バッカス君は住んでいるし、重量挙げをやる若者はいるし、大いに気に入った。日本に帰って来ても、わしは中央医学界の仁術を忘れた連中と付き合うのは真っ平御免なのだから、ここを墳墓の地に決めたいと思っている。
...
-
安直戦争後の段祺瑞派の高官を大連の私邸に匿ったと言われている。その時、段祺瑞から送られた「仁術」の文字をはじめ、当時の人物が書き残した書が現在も残されている。
...
-
然し乍ら私は現在の小学校の先生方が皆かくの如き人格者のみであるとは思わない。丁度医者が昔から仁術であると云われていながら、その大抵は金とり主義になっているように、小学校教師にも自己の職務を余りに職業視している人があると思う。私はある時郷国の小学校に就て其の内幕をみるの機会を得たのであるが、其の風儀の壊廃は実に驚くに堪えたるものであった。
...
-
当時リサーチ階級は僧をおいて他になく、輸入医学や薬学は、いつか僧の職務に包含されたのは当然である。この時から坊主で医者を兼ねることがはじまり、医と仁術の結合にいわば主役を演じた。医療が国家事業となり、医者が官人となったのは大宝律令制定のときである。
...
-
金持もまたごっそり取られて、医師と親交があるということを自慢にしていた者もいる。こうしておいて一方では貧民に仁術を施す。「払いは盆暮まで待つ」とか「水薬代はいらぬ」といったところで、医師にとってはまことに微々たるものである。
...
-
されば、恐死病を医するもまた仁術なり。恐死病は病苦の最大なるものなれば、これを医するは仁術の大なるものならざるべからず。余が家、貧にして財施をなすの力なし、また、身多忙にして法施をなすのいとまなし。
...
-
その混雑のなかで、乗岡先生が仲三さんを見つけてくれた。「あの乗岡円了という先生は、仁術を施す先生でありました」と保さんが云った。乗岡先生は大阪逓信局から派遣された救護班の班長で、救護資材をリュックサックいっぱい詰めた班員一同を連れて逓信病院に到着した。
...
-
「大医病を治するに無欲無求、大慈惻隠の心に発すべし」 と。その仁術の精髄は今どこへ行った?医道の乱れは平安時代、律令体制の弛緩にはじまった。
...
-
外科では上手と云われているが、脂ぎった五十男で、仁術という職業には余りに体力的な人物だった。道楽が多いらしいのである。
...
-
さっそく兎がその通りにすると、間もなく傷が癒えたと『古事記』にある。兄のいじわると対照的に、いかにもさわやかな仁術ぶりである。有史時代には他の文物と同様、医術も朝鮮・中国から輸入された。
...
-
シュヴァイツアにせよ、カロッサにせよ、自然科学者ではない。医学には専ら仁術として、人に働きかける媒介としてたずさわったのであって、学問としてこれに貢献せんとした訳ではない。それでよかったのだ。
...
アマゾンで検索:仁術