仁術
39 の例文
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臨床的な、そういう過失の体験を経てはじめて、この病人にはこれ程と適量の劇薬を調合し得る。医が仁術となるのは謂ばそんな体験よりの懺悔をともなう故であろう。自分は、これ迄にもそうは思いながら万一を怖れて今一匙の薬を盛る勇気なく、却って病人を激痛に喘がしめ、死に至らしめた。
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そのことについては、他日、その機を得て感謝する時があろうと思います。医者は、仁術であるべきであるが、独り、このことを医者だけに求めるべきものでない。そんなら、今後、医者は、何うなるべきであるか。
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爾来、医者は仁術と言われておりまして、社会民衆のために努力するのが、その使命でありますにかかわらず、今日の彼らはただ金を多く儲けさえすればよいというだけのことになっております。彼らは個人個人に対する医術は知っていても、社会病理に対する診断をなし得ないのであります。
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後に私が病気した時、どんなに我を忘れて世話してくれたろう。医者は仁術というが、恭一君のはぴったりそれであった。
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本格の芸術の使命は実に「生」を学び、「人間」を開顕して、新しき「いのち」を創造するところに在る。斯るときに於てはじめて芸術は人類に必需で、自他共に恵沢を与えられる仁術となる。一時の人気や枝葉の美に戸惑ってはいけない。
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安直戦争後の段祺瑞派の高官を大連の私邸に匿ったと言われている。その時、段祺瑞から送られた「仁術」の文字をはじめ、当時の人物が書き残した書が現在も残されている。
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稀だからこそ大層な評判になるのである。それでも時たまこういうことをしておけば「あの先生は仁術だ」ということでぱっと人気がでる。庶民は人づき合いが多いから彼等を宣伝の具に使うのは一番手っ取り早い。
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然し乍ら私は現在の小学校の先生方が皆かくの如き人格者のみであるとは思わない。丁度医者が昔から仁術であると云われていながら、その大抵は金とり主義になっているように、小学校教師にも自己の職務を余りに職業視している人があると思う。私はある時郷国の小学校に就て其の内幕をみるの機会を得たのであるが、其の風儀の壊廃は実に驚くに堪えたるものであった。
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当時リサーチ階級は僧をおいて他になく、輸入医学や薬学は、いつか僧の職務に包含されたのは当然である。この時から坊主で医者を兼ねることがはじまり、医と仁術の結合にいわば主役を演じた。医療が国家事業となり、医者が官人となったのは大宝律令制定のときである。
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金持もまたごっそり取られて、医師と親交があるということを自慢にしていた者もいる。こうしておいて一方では貧民に仁術を施す。「払いは盆暮まで待つ」とか「水薬代はいらぬ」といったところで、医師にとってはまことに微々たるものである。
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されば、恐死病を医するもまた仁術なり。恐死病は病苦の最大なるものなれば、これを医するは仁術の大なるものならざるべからず。余が家、貧にして財施をなすの力なし、また、身多忙にして法施をなすのいとまなし。
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「大医病を治するに無欲無求、大慈惻隠の心に発すべし」 と。その仁術の精髄は今どこへ行った?医道の乱れは平安時代、律令体制の弛緩にはじまった。
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さっそく兎がその通りにすると、間もなく傷が癒えたと『古事記』にある。兄のいじわると対照的に、いかにもさわやかな仁術ぶりである。有史時代には他の文物と同様、医術も朝鮮・中国から輸入された。
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村民すべて腕に覚えがあるから、相手の強さが身にしみて分るのである。しかも学識深く、オランダの医学に通じて仁術をほどこし、人格は神の如くに高潔であった。ただ時々行方不明になる。
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私が揚足とりのようなことを言って文句をつけると、彼は数冊の医学書をもって来て、と、むきになって抗弁した。医は仁術という古い言葉は、もうどこにも通用しなくなったが、四宮医師にとっては今でも仁術であるらしい。貧乏人から高いかねは取れないし、さりとて見す見す治るものを、高い良薬を使わない訳には行かないと告白する。
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外科では上手と云われているが、脂ぎった五十男で、仁術という職業には余りに体力的な人物だった。道楽が多いらしいのである。
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その混雑のなかで、乗岡先生が仲三さんを見つけてくれた。「あの乗岡円了という先生は、仁術を施す先生でありました」と保さんが云った。乗岡先生は大阪逓信局から派遣された救護班の班長で、救護資材をリュックサックいっぱい詰めた班員一同を連れて逓信病院に到着した。
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隆鼻術は、こんな方々のこんな心理状態が社会に鬱積して生み出した医道の副産物であります。もしこれが百発百中糝粉細工のように人間の鼻を改造し得る迄に発達致しましたならば、それこそ副産物どころでない、仁術中の仁術と推賞しても差し支えないであろうと考えられます。
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だもんで圖々しい奴らはみんなさうするんだ。醫は仁術と云ふことにつけ込むんさ。したが長森の女房にやそれが出來ん。
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教授は医療具と薬品を入れた、大きな鞄を携帯していた。むかし講義のおりに、「こいつは仁術用の合財袋さ」とよくいわれていた、名医の携帯手まわり用具である。やがてヒリンガムの家へ行き、ルーシーの母堂の出迎えをうけた。
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於継の論法ではないが、医家は士農工商のいずれにも属さないし、学問を土台とした人助けの職業として賤しむべき筋合はない。しかし医者の多くは豪家の次男三男が志したものであって、山林や農地から上る小作料で充分暮しの賄えるものが別に仁術をほどこしているのであった。南朝の名門楠氏の一族と華岡直道は家系自慢で吹聴して歩いているけれども、名手荘における華岡家は小百姓から半農半医になって、医術を専業とし始めたのは直道の親の代からなのである。
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あの何糎は、いったいどこを測ればいいのか説明がなく、珍宝の上側と下側ではずい分差を生じる。どっちみち大したことはないのだから、いっそその平均雄々しき時に長さ六糎、太さ一糎五粍くらいのことをいえば、みんなずい分気楽になるだろう、こういうのを仁術と申すのではないか。そして、この若い男たちが、何かにつけて自らを平均以下の劣等者と思いたがるのに較べ、女というしろものはどうして、あんなに図々しいのであろうか。
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事実、こうした江戸文華の裡面の秘密を握って、喰って行く商売人が非常に多かったのである。いろいろな随筆、わけても極平凡な明るい意味で、「医を仁術」と心得ている医師たちの記録には、彼等の職業を極度に攻撃したものが些くなかった。それにも拘わらず彼等は、「必要の前に善悪無し」という程度の格言を信条として、益盛に横行したらしい。
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出生時、分娩子癇で母子ともに生命の危機にさらされたが、京都大学の産婦人科医の懸命の治療により親子とも一命をとりとめる。父親が「仁術に依り生命を得たと云へる子供であれば、医學に感謝すると同時に仁義に厚き人間にならねばならぬ」という想いから「仁志」と名付けた。物心が付き、出生時の顛末を知ってから、医師になる事を志すようになる。
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甲斐で神医といわれた人物である。信玄の侍医となったこともあるが、必ずしも武田の庇護を受けず、牛に乗って「一服十六銭」と呼び歩き、敵味方、貧富を問わず仁術の手をさしのばした奇医である。すでにこの年、七十歳になんなんとしていたが、数年前、甲斐を飄然と去っていまそのゆくえを知る者もない。
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他方で、第1次世界大戦後にゴム・錫・米等の価格が高騰したとき、胡は独占的な事業を展開する弊害や過剰生産に陥るリスクを理由にゴム産業や鉱業への投資話に応じず、その後世界恐慌によりゴム価格が暴落し世界的な不況に陥った際も、胡は事業で利益を挙げ続けたとされる。胡は、「事業経営の源は仁術を世に施すことにある」として、1930年代から永安堂の稼得利益の4分の1を慈善・公共事業に寄付することを決め、その後寄付金の割合は徐々に増えて6割程度に達していたとされる。胡の私財は、 などに投じられた。
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シュヴァイツアにせよ、カロッサにせよ、自然科学者ではない。医学には専ら仁術として、人に働きかける媒介としてたずさわったのであって、学問としてこれに貢献せんとした訳ではない。それでよかったのだ。
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天文・暦数にくわしいのは、熊野権現の武器である。天変地異が起る毎に、熊野権現は、予言を行い、天竺渡来の薬草類を使って、仁術を施してみせた。さらに、熊野の神かくしに会った者は、数年を経て、帰郷すると、必ず特技を習得していて、養蚕に、機織に、染色に、村人を驚かした。
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