ほとんど有名無実
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東京では1892年に内臓を取り除くことを条件にフグの販売が解禁された。他の地域はフグの販売が禁止されていたが、ほとんど有名無実であった。太平洋戦争後の1947年に食品衛生法が制定されると、各都道府県でふぐの販売に関する条例が制定されるようになった。
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武家伝奏は、幕府から願い出ることを天皇に伝達奏聞する役で、武家が政務を独占してからは、朝廷百官のなかで最も重い役職となっていた。他の官職は、ほとんど有名無実と化していたからである。したがって、納言・参議の官位をもつ者から、学才があり、弁舌にすぐれ、かつ帝の臣としてふさわしい容貌の持主が選ばれた。
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諸外国は中立を守った。箱館の居留地は、ほとんど有名無実で、実際には外国人は市街地に雑居した。現在も赤レンガの倉庫やカトリック教会、正教会の教会堂が残る。
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中国を再統一した隋は旧制を取り入れ九寺を六部の下位に置いた。続く唐の制度は隋制を踏襲したため九寺はそのまま残されたが、尚書省・六部の権限が既に確立されており、九寺の権限はほとんど有名無実化していた。その後、唐の制度が中国の制度の理想形とされたため九寺の名は容易にはなくならず、宋・元にもみられたがほとんど形骸に過ぎず、次の明において五寺に削減された。
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しかしバイエルン継承戦争が勃発すると、彼は軍隊に復帰することになった。戦争は短期間でほとんど有名無実に終わった。するとシャルル・ジョゼフはイングランド、ドイツ、イタリア、スイス、フランスとヨーロッパ中を旅して、各国の宮廷、軍営地、サロン、哲学者や科学者の学会を訪問した。
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木戸はまだ、この時点では保身もあり強気に組しているから、 「三千、五千の兵が残りましても、ほとんど有名無実でございます」 と答えた。天皇は黙っている。
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ハンス・ザックスの生前からすでに形骸化の兆しを見せ始めていたマイスタージンガーたちの活動は、規則と伝統に縛られたことに加え、内紛による士気低下が乱脈経営となって現れ、ニュルンベルク市当局は何度か「歌学校」の解散を命じるようになる。他の帝国都市でも事情は変わらず、三十年戦争を境として、マイスタージンガー組合はほとんど有名無実の存在と化していた。
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また、帝国騎士はすべてが地位を失い、帝国都市や小侯国など112におよぶ帝国等族の所領が取り潰されて帝国都市は6つに減少し、すべては大中の諸領邦に併合されて陪臣化の傾向が顕著になった。ドイツの領域は大幅に再編成され、神聖ローマ帝国は約40の中規模の邦国の集合体となったが、世俗化と陪臣化は帝国を切り崩すのに大きな影響力をもっており、実際に帝国がほとんど有名無実化した結果、「ドイツの自由」というヴェストファーレン条約以来のドイツの国制の原則は完全に破綻した。right|360px|thumb|「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」フランスでは1802年8月のナポレオンの終身統領就任を経て、1804年5月には元老院決議によって帝政が成立した。
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しかし、今日でもこれらの業者のことを正式名称の「相撲案内所」と呼ぶことは稀で、一般には「相撲茶屋」または「お茶屋」と呼ぶことがほとんどである。「一番」から「二十番」の案内所番号に至ってはほとんど有名無実化しており、それぞれのお茶屋では今日でもそれぞれの由緒ある屋号を前面に打ち出して使用している。それぞれの枡に置かれた湯のみや急須、出方の持っている荷物運搬用の籠には、その枡席を保有するお茶屋の番号が無造作にマジックインキで書きつけられているが、一般の観客が案内所番号のことを意識するのは、これを見て一瞬考え込むときぐらいのものである。
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結局、この月一八日に辞職願いがききいれられることになって、わずか十数日間のかたちばかりの在任でおわった。もっとも、前任の真田幸民は七日間、その前が大久保忠礼で足掛け四ヶ月というぐあいだから、この役職はほとんど有名無実のまま、正倫を最後に廃止されている。なお、前述の常野降人教育のため国元に出張していた渡辺又十郎が江戸藩邸に帰り、説諭の効あって、みな感泣して一死をもって国に報じるというまでになった、と復命した。
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エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスがポール・バラスの協力を得て他の現職総裁を厄介払いすることに成功した1799年6月18日をもって総裁政府の崩壊の始まりとする歴史家もいる。この日、の総裁選挙上の不正が明らかになったことで、トレヤールが総裁から辞任してルイ=ジェローム・ゴイエが後任総裁となったうえ、とルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポーも総裁からの辞任を余儀なくされて男爵とロジェ・デュコが後任総裁となったが、3人の新総裁はほとんど有名無実であった。戦局の悪化、フランス南部における王党派の反乱、西部諸州におけるの反乱、オルレアニストの陰謀等により窮地に立たされた総裁政府は、社会不安を鎮静化して国境防衛に当たるため、フランス革命期の恐怖政治における常套手段よりも過酷な措置をとらざるをえなくなった。
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