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名詞
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自国で死刑の宣告を受けた男で、読者諸君もすでにご存じなわけである。ルイ十四世時代に、伯爵の身寄りの女が、コンチ大公家のものと結婚している。そういう因縁から、修道会としてもあまり伯爵をきびしく監視するわけにはいかなかった。
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彼女の言によれば、現在の状勢では、高等法院はジェジュイット派から宗教に無関心だと告発されないようにせねばならぬ、だからわたしをたたく必要があるのだ。しかし、彼女は、コンチ大公および彼女自身の運動の成功をあまりあてにはしていないようでもあった。彼女の会話は、わたしを安心させるどころかおびえさせた。
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ラ・トゥーシュ夫人はキングストン公爵とイギリスヘ駆け落ちした。ダルチ夫人はコンチ公の愛人というよりむしろ友人、たった一人の誠実な女友だちだった。魅力あふれる才気と、いつもかわらぬ陽気な気質、それにおとらぬ、やさしくて善良な好ましい性格をそなえた尊敬すべき婦人であった。
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ある出撃に際してシラノは火縄銃の弾丸で貫通銃創を受けて後送された。傷がなおるとすぐ軍に戻ったが、今度はコンチ太公のひきいる近衛騎兵隊だった。この点は、戯曲と異なる。
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リュクサンブール氏の提案は、数日間身分をかくして彼の家に滞在し、もっと時間をかけて計画をねり決定する、というものだった。わたしは同意しなかったが、ひそかにタンプル〔コンチ大公のパリ邸〕にゆくという提案にも、同意しなかった。どこだろうと、身をかくしているよりも、この日すぐに出発したいと、わたしは固執した。
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キミは不幸な男である。キミはまごまごしていると、たちまちアイビーやコンチの似合う男になってしまう危険にさらされている。キミの目の前にはプレイボーイになりそうな条件が揃っているのだ。
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十七世紀の中葉以後は俳優たちの暮らしはだいぶ楽になり、都会ではそれほど軽蔑されることはなかったが、教会関係者はつねに彼らを良風美俗の敵として非難していた。コンチ公がモリエールの援助をやめたのは後のアレトの司教の示唆であるといわれ、また『タルチュフ』事件をみても、当時の教会の態度は理解できよう。
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パレーシアとはギリシア語で言論の自由ということなのだから。わたしはコンチ公殿下のおじぎみや弟ぎみに当たる枢機卿のかたがたに対してさえも、自由にものを言った。だが、こうした高貴のかたがたに対する尊敬の念を失ったことはなく、わたしの自由な話しぶりを見て腹を立てたおつきの者などはひとりもいない。
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これは、罰されずにすむはずのないところの、わたしの格律への違反であった。わたしは、コンチ大公の家臣たちも公の領地で、これに劣らず苛酷にふるまっている、ということを知った。公にたいしては尊敬と感謝の念しかわたしはいだいていないのだが、人間性に反する行為に憤激して彼の叔父について言ったことを、公が自分のことを言っているのだと思いこんで、侮辱されたと考えはしないか、とわたしは心配した。
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しかし、別離のときにあれほどなげき悲しみ、もう一度いっしょになるのだ、という確約をわたしに求めた。わたしがたったのち、コンチ大公にもリュクサンブール氏にも、わたしと一緒になりたいという願いをつよく示したので、彼女にわかれ話をきりだすどころか、わたし自身それを考える勇気もほとんどない。そして、彼女なしで暮らすのがどれほど困難かを痛感してからは、すぐに彼女をよびよせることしか考えなかった。
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ブフレール夫人はそれほど落ち着いてはいないようだった。彼女は、動揺の様子でいったりきたり、夢中で動きまわり、コンチ大公も、わたしを待ちかまえている打撃をそらすために骨折ってくれている、とわたしに保証した。彼女の言によれば、現在の状勢では、高等法院はジェジュイット派から宗教に無関心だと告発されないようにせねばならぬ、だからわたしをたたく必要があるのだ。
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しかし、実際彼女がしかったとしても、そういう叱責が、彼とわたしとのあいだの関係を改善したかどうか、いうまでもない。リュクサンブール邸でもまたタンプル〔コンチ大公の邸〕でも、こうしたことすべてにたいしてわたしに残された唯一の支えは、わたしの友だと公言しているロランジ騎士だけだった。だが彼はダランベールのほうとずっと親しく、この友達のおかげでご婦人がたのあいだでは大幾何学者として通っていた。
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継母の死と前後してモリエールはジェズイット派のクレルモン学院へ入学する。この学校は現代フランスでも屈指の名門校ルイ・ル・グラン高校の前身で、当時は貴族や大ブルジョワの子弟の特権校であったが、彼はここで終生の友人となったシャペル、ベルニエ、後に彼の劇団の庇護者となったコンチ公を識ったという。三九年頃、この学院を離れて後、彼は当時デカルトと対比された唯物論哲学者ガッサンディの講義を聴き、思想的に深い影響を受けた。
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当時の彼の生活を見ると、有名なクレッキ侯夫人、ミュサール・ドゥブレ夫人などのサロンに賓客として迎えられ、家には「五人か六人かの友人」を迎えて、田園の散歩や音楽に時を過ごしている。そうした、みち足りた生活は彼の創作力に拍車をかけて多くの作品を世に問うと同時に、年来の保護者コンチ公に仕えて、コンチ家の歴史編纂の仕事も引き受け、生活はすっかり安定していた。一七六二年、プレヴォは晩年を静かに送るべく、シャンチィに近いサン・フィルマンという小村に引退し、文字通り悠々自適の生活を送った。
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本が出版されたころ、彼女と知りあいになったので、わたしは非常な不安を感じた。そのむね、ロランジ騎士〔コンチ大公につかえたフィレンツェの貴族〕に告げると、彼はわたしをあざ笑って、あの方はそんなことは気にとめていない、気づいていないくらいだといってくれた。その言葉を信じたのは、若干軽率だったようだ。
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そしてかつてのクレルモン学院の同窓のコンチ公に会い、ライバルのコルミエ劇団をしりぞけて公の愛顧をうけ、年金を下賜されるほどの優遇をうけた。以後、一座は「コンチ公専属劇団」を名乗り、地位的にも財政的にも一つの足がかりをえた。そして以後数年間、一座は形影相伴うように公の傍に姿を現わしているところからみると、公は彼らにとってよほど頼りになる庇護者だったらしい。
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が、ブフレール伯夫人はそうだった。散文の悲劇をつくったが、これがまずコンチ大公のとりまきのあいだで朗読され、回覧され、激賞された。こんなにほめられたのに満足せず、彼女はわたしの意見をもとめ、わたしの讃辞をうけたいという。
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