駿府の大御所

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  • 駿府の大御所さまや服部どのは、なぜいまになって争忍そうにんの禁をといたのか? 山田風太郎『忍法帖1 甲賀忍法帖』より引用
  • 日本の金山かなやま総奉行で、駿府の大御所第一の寵臣ちょうしんであったが、この長安がこの夏のはじめに死んだのである。 山田風太郎『忍法帖4 忍法八犬伝』より引用
  • 玄三郎を張可法にひきあわせてくれたのは、駿府すんぷの大御所さまのもとにやってきた応天府おうてんぷの明商人阮大鍼げんたいしんだった。 篠田達明『にわか産婆・漱石』より引用
  • 慶長十八年の春、駿府すんぷの大御所が出府したとき、家康は町奉行の嶋田弾しまだだん じようの ちゆう から妙な話をきいた。 山田風太郎『忍法陽炎抄』より引用
  • 慶長けいちよう十八年の春、駿府すんぷの大御所が出府したとき、家康は町奉行の嶋田弾正忠しまだだんじようのちゆうから妙な話をきいた。 山田風太郎『かげろう忍法帖 ―山田風太郎忍法帖短篇全集(1)』より引用
  • その足でまた、駿府すんぷの大御所のもとへ参賀する。 山田風太郎『叛旗兵』より引用
  • 慶長19年に起こった方広寺鐘銘事件では、駿府の大御所徳川家康の元へ使者として派遣される。
  • 駿府の大御所の命により、服部家との約定が解かれた、と。 山田風太郎『忍法帖1 甲賀忍法帖』より引用
  • 駿府の大御所第一の寵臣として権勢をふるった大久保石見守長安が死んだのは、慶長十八年四月二十五日のことである。 山田風太郎『忍法女郎屋戦争』より引用
  • それでは、直接、駿府の大御所に訴えればよいのだが、これができない現状が、お福の誤算の第三であった。 堀和久『春日局』より引用
  • 正純の父・本多正信は将軍秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所徳川家康の側近であった。
  • 慶長12年には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた。
  • ついには彼は、じぶんの愚かしさや、朧への疑惑をこえて、じぶんたちをこのような破局にたたきこんだ駿府の大御所や服部半蔵に、狂おしいばかりの怒りをおぼえてくるのであった。 山田風太郎『忍法帖1 甲賀忍法帖』より引用
  • 一昨年、家光公が将軍職につかれて以来、ご老中の勢力も、駿府の大御所から秀忠公へ、そして秀忠公から家光公側近へと移って、ますます国のなかを整備しようという気構えが強い。 辻邦生『天草の雅歌』より引用
  • 阿波守は、べつにこの新年の参賀にかぎらず、事あるごとに駿府の大御所の御機嫌うかがいにやって来る。 山田風太郎『叛旗兵』より引用
  • 慶長十四年、というから彼がまだ松代の大名であったころ、十八歳のときの話だが、老臣の皆川山城守やましろのかみ、山田長門守ながとのかみ、松平讚岐守さぬきのかみが連名で、「上総介さま、おん行跡荒あらとして言語に絶する」むね数か条を駿府すんぷの大御所に訴え出たことがあった。 山田風太郎『くノ一紅騎兵』より引用