香華
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名詞
158 の例文
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木下惠介が監督の他に脚本も執筆し、「香華」以来の監督作品となった。
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秋の彼岸に、神林東吾がるいと二人、浄念寺へ墓参に訪れたのは、ここがるいの生家、庄司家の菩提寺の故であった。墓地は本堂の北側にあり、すでに香華をたむけられている墓も少くない。門前町で用意して来た線香と花をるいが持ち、東吾は井戸から汲み上げた水の入った手桶を提げて墓石の並ぶ細道を奥へ向っていた。
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その室は、中央の壁の凹所、仏壇の後ろに禅宗の開祖菩提達磨の像か、または祖師迦葉と阿難陀をしたがえた釈迦牟尼の像があるのを除いてはなんの飾りもない。仏壇には、これら聖者の禅に対する貢献を記念して香華がささげてある。茶の湯の基をなしたものはほかではない、菩提達磨の像の前で同じ碗から次々に茶を喫むという禅僧たちの始めた儀式であったということはすでに述べたところである。
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同じ人間に生れて同じく定命つきて永劫の眠りについても、或者は堂々と墻壁を巡らした石畳の墓地に見上げるような墓石を立てゝ、子孫の人達に懇ろに祭られている。それ程でなくても、墓石一基に香華一本位の手向のあるのは普通であろう。それに何等の不幸ぞ。
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ほかのものは、ただ香華を上げて、なむあみだぶつと唱えるにすぎない。それに反して、恋するものたちは、そこへ行って、霊験ある同情と助力とを祈願するのである。
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それとならんで、新しい石塔がある。その前の香華をいける石に何者か腰をかけていた。それ自身、石像のようにうごかない。
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雨の降った年もあったし、珍しく雪の積っている年もあったが、おおむね晴天に恵まれて墓地の中を歩くのは気持がよかった。その小さな墓には既に香華が捧げられていた。彼女の家は土地の旧家だったし、戦後没落したとはいえ、娘の忌日を祭ることも出来ない程落ちぶれたわけではなかった。
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故に節会をその花下に開き、青年男女をして誦歌相誘わしむ。大日如来が香華燈塗の四菩薩を出して四仏を供養するは上に述べた。
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もうご迷惑はおかけいたしますまい。あなたの残り少ない日々への香華として、私の知る限りのことをお話し申し上げましょう。二十年前、あなたさまが疑っていらしたように、主人の死は尋常なものではございませんでした。
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わしはの、義理の継母によう仕えておるあのこうが、矢張り独りの折にはふと亡くなった母を偲んでおるのではあるまいかと思うと不憫でならん。時々、わしの目をぬすんで、母の菩提寺へ香華を捧げに参っておるも知っておる。物心つく四つの比から母の優しさを知らず、武辺一辺のこのわしが手塩にかかって育った娘じゃ。
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末寺には徳川譜代大名の香華所となった寺院が多く、この地域の禅宗信仰の中心となった。明治時代から独住制となった。
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その他の石は皆小さく蔦かつらに蔽われていた。その頃年少のわたくしがこの寺の所在を知ったのは宮戸座の役者たちが新比翼塚なるものに香華を手向けた話をきいた事からであった。新比翼塚は明治十二、三年のころ品川楼で情死をした遊女盛糸と内務省の小吏谷豊栄二人の追善に建てられたのである。
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香華をたむけて、やがて帰りかけるところへ雪駄の音がして、畝源三郎がやって来た。「今月は非番だったものですから、もっと早くに出かけてくるつもりでしたが、少々厄介なことがありまして、遅くなりました」 定廻り同心であった、るいの父親は源三郎にとって先輩に当る。
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「栖岸院」は重信の戒名に由来する。他にも丹南藩藩主家の高木家や旗本諸家の香華寺となっていた。江戸時代、当寺の住職は将軍に単独拝謁できる格式が認められていた。
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終戦前までは、反乱軍の指導者ということで、詣でることも禁じられていたそうであるが、今は時々旧軍人や右翼?の人々も参詣にくるらしく、香華が上がっていた。高さは一メートル半もあろうか、かつて大日本帝国を震撼させた天才の眠るところとしては、わびしいが、北一輝は十分満足して、隻眼を光らせながら、自分の『日本改造法案大綱』が、奇しくもマッカーサーの占領政策によって、ある程度実現したことを知って、眼を細めて微笑しているかもしれない。
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下手人が大安寺の方角へ逃げればともかく、裏手の道を行ったとなると、まず、目撃者はあるまいと思われた。棺に香華をたむけて、方月館へ帰ってくると、仙五郎が待っていた。「お侍が赤ん坊をさらうってのは、どういうわけでございますかね」 支配違いだから、手は出せないが治兵衛が方月館へ出入りしていたかかわり合いがあるし、なんの抵抗もない女をむごたらしく斬って去った下手人を、仙五郎は腹にすえかねている。
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豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做されてゐる。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓に香華を供したものはわたくし一人ださうである。樺島石梁、名は公礼、字は世儀、通称は勇七である。
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