難太平記

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  • 晩年は『難太平記』の執筆など著作活動を行なった。
  • 難太平記ではこのとき、直義の家臣の淵辺義博が身代わりに殺され直義が逃げる間をつくったとされる。
  • 足利一族の一人である今川了俊が『難太平記』の中で祖父以前の歴史を十分に知らないことを告白するとともに、幕府成立後も一族内に尊氏の系統を宗家・嫡流であることを認めない者がいたことや今川氏が他の庶流と違って宗家に忠実であったことを主張している。
  • 同時代を生きた今川貞世は応永9年に著わした『難太平記』において内容の誤りを指摘している。
  • 義家から七代目にあたる足利家時は、自分の代では達成できないため、三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害したと『難太平記』にある。
  • 晩年には学者として著作に専念し、『難太平記』は古典『太平記』を難ずる意味の歴史書で、応永の乱における自らの立場や、太平記に記されない一族の功績を記している。
  • 今川貞世の著した『難太平記』によれば民百姓の暮らしをしていたとされるが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は貞世がライバル関係にある山名氏を貶めたものと考えられる。
  • 「難太平記」によれば、直義らは新田軍に追いつめられ、義博が敵中に突撃して戦死し、今川範国が直義を説得して撤退させたとされる。
  • 今川貞世『難太平記』には法勝寺に在住していた円観が『太平記』三十余巻を足利直義に見せたと記されている。
  • 足利尊氏が北条氏打倒に立ち上がったのは、家時から三代後の子孫としてそれを見せられたからであり、『難太平記』の著者今川了俊も、自分もそれを見たと記している。
  • 室町時代前期の武将今川貞世が著した「難太平記」には、以下のような内容の記述が存在する。
  • 以上の当社への祈願の様子は、『梅松論』・『太平記』・『難太平記』にも記載されている。
  • 作者と成立時期は不詳であるが、今川貞世の『難太平記』に法勝寺の恵鎮上人が足利直義に三十余巻を見せたとの記事があり、14世紀中ごろまでには後醍醐天皇の崩御が描かれる巻21あたりまでの部分が円観、玄慧など室町幕府との密接な関わりを持つ知識人を中心に編纂されたと考えられている。
  • 後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。
  • この点については『難太平記』のほか、『太平記評判秘伝理尽鈔』でも、あくまで根拠の乏しい伝説の域を出ないが、実に10人を超える作者を列挙している。
  • これについて、『太平記』は清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世の『難太平記』では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。
  • 「難太平記」は今川貞世が著した史書で、太平記の誤りを訂正しつつ、今川氏の事績を中心に書かれている。
  • 北畠親房の「神皇正統記」や今川了俊の「難太平記」でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。