陰徳太平

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  • 上陸後、闇の中で道に迷ってしまった毛利軍の前に牡鹿が現れ塔の岡へ導いたと陰徳太平記は伝えている。
  • また、『芸藩通志』では『陰徳太平記』の記述を引用して異説を紹介している。
  • これは陰徳太平記によると、易でいう悪日を避けたためとされているが、桂元澄が寝返るのを待っていたからだとも言われる。
  • 上記の合戦の経緯はおおむね、江戸時代に書かれた軍記物語である『陰徳太平記』を元にしている。
  • 以上は宣阿の著作「陰徳太平記」を元にした話である。
  • この時の様子を『陰徳太平記』では「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記している。
  • 陰徳太平記では、理興は武勇に優れた武将でとして描かれ、隆宗との戦いに関するエピソードも記述されている。
  • そしてそれは琳聖太子がここに上陸して、装束を改めたに因むと『陰徳太平記』にある。 金達寿『日本の中の朝鮮文化 08 因幡・出雲・隠岐・長門ほか』より引用
  • 歴史書としては、尼子氏滅亡直後に書かれた点で一級の資料であり、毛利側の陰徳太平記と対を成す、尼子側の諸将の心情をよく表している書と言える。
  • 陰徳太平記では、籠城側は兵300程であり、小田信忠は降伏を申し出たが、元繁が拒否したとされている。
  • 大内氏実録では6月2日に毛利軍と山名軍の戦いが、陰徳太平記では6月18日と20日に総攻撃があったとされる。
  • この戦いは「犬飼平の合戦」と呼ばれるが、これらは江戸時代になってから書き記された『陰徳太平記』の記述によるところが大きく、信頼性の高い史料や感状などによる裏付けができないために虚構であるとの説が有力である。
  • これについても軍記物で諸説有るが特に多く見られる天正7年説は『陰徳太平記』という軍記物が元になっている。
  • 鳥取県の旧因幡国の地誌で後に書かれた『因幡志』などの書籍に大きな影響を残し、その影響は『陰徳太平記』にも及ぶ。
  • 二次史料ではあるが『陰徳太平記』には元亀3年にあった山名豊国の鳥取城攻めの武将として国重の名前が記されている。
  • 元禄8年景継は『陰徳記自序』を書いており、この頃に『陰徳太平記』は完成していたと考えられている。
  • なお、『陰徳太平記』では、光和は大変な怪力の持ち主であるとされ、この戦いでも光和自身が兵士たちと共に最前線で戦ったとの伝説が書き残されている。
  • また、天正年間には安芸国新庄の地に「家老中村が子」が人質として滞在していたことが『陰徳太平記』に見える。
  • 毛利側の資料『陰徳太平記』では、品川が優勢に勝負を進め、鹿介は追い詰められたが僚友の秋上宗信の助力で勝ったと記されている。
  • 内容は『伯耆民談記』、『陰徳太平記』からの引用が多く見られ、独自色はそれほど強くない。
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