関西歌舞伎の凋落
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このような状況下、当然ながら観客動員も激減してゆく。ここに、関西歌舞伎の凋落と終焉は誰の目にも明らかな事態となった。壽三郎とならぶ壽海は関西歌舞伎俳優協会会長の要職にあり、人格もよく芸格も向上して名実とも当代一流の歌舞伎役者となっていたが、東京生まれであり、先述した松竹の壽海偏重方針も災いして反発を買い誰にも支持されていなかった。
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芸域は非常に広く、とりわけ宇野信夫監修、二代目中村鴈治郎と三代目中村鴈治郎と共演した『曽根崎心中』では油屋九平次を通算500回以上も勤め、生涯の当たり役といわれた。晩年は関西歌舞伎の凋落で思うように活動できなかった。子は映画俳優・北上弥太郎としても活躍した八代目嵐吉三郎。
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太平洋戦争後は、歌舞伎座などの劇場の閉鎖や芝居茶屋の廃業などのきびしい状況にもかかわらず、三者を中心に歌舞伎は関西の歌舞伎愛好者の人気を集め、大戦末期の空襲にも屈せず興行が行われた。戦後になると、関西歌舞伎の凋落が急速に進んだ。京都南座・大阪歌舞伎座をのぞく、主要劇場の空襲による焼失は大きな痛手だった。
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歌舞伎興行の低迷ゆえに大阪の新歌舞伎座が、藤十郎と兄九代目宗十郎の襲名披露を最後として、ついに歌舞伎公演から手を引くことになり、これに責任を感じての奮起だったと言う。東京の歌舞伎関係者も、関西歌舞伎の凋落は歌舞伎界全体の衰退に繋がりかねないと、相当の危機感を抱いていたのである。そんな関西歌舞伎の復興を目指す人々の熱意と大阪市の助成金や民労協の協力もあり、興行側も重い腰を上げた。
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