郷社に列格した
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城山頂上はかつての宮崎城の城址であり、横尾の里宮に対して、ここには現在奥宮が存在する。近代社格制度のもとで神社名を脇子八幡宮として明治4年に郷社に列格した。昭和20年に県社昇格の内定を受けていたが終戦となり、現在に至っている。
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慶長19年の大坂冬の陣で社殿は焼失したが神像は無事で、現在地に遷座して中振・出口両村の産土神として再建された。明治5年、走谷村の産土神であった加茂健豆美命神社を合祀して郷社に列格した。現在の社殿は明治22年3月に改築されたものである。
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創建年は不明であるが、菅原道真の霊を京都北野天満宮から勧請し、北野の「野」と所在地の香川郡中ノ村の「中」を合わせて中野天神と称し、その後1638年に生駒高俊が現在地に奉還した。高松藩藩主・松平頼重はこの菅神を厚く信仰し、社殿・社地を大きく広げ、1916年には郷社に列格した。しかし、それらは1945年7月4日の米軍による無差別絨毯爆撃「高松空襲」によって全焼し、社殿など一切は失われる。
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明治時代に入って法貴寺村の天神と称する当社を式内池坐朝霧黄幡比売神社と見做すようになり、明治15年には郷社に列格した。
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慶長元年、吉田重勝が松坂城を修補した際に、当社に宇迦之御魂命を合祀した。明治初年、式内・意悲神社に比定され御城八幡から意悲神社に改称し、明治4年7月に郷社に列格した。
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大内氏が元亨元年に社房を建立し、毛利氏は御祈祷所に指定している。明治初年には郷社に列格した。山田神社は、旧称を山田権前社という。
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岩崎弥太郎は当地で事業を営み、三菱財閥の発祥の地となる。岩崎弥太郎は社殿の造替を行い、郷社に列格した。以来現在まで三菱グループの守護神となっている。
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そして勝利したとして、毎年米三千俵を寄進したといい、江戸時代には幕府より山地二十余町歩を寄進したといわれ、明治維新までの旧境内地は六万坪余にのぼった。明治6年に村社、明治16年には郷社に列格した。
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神社データベースには「代々の領主から高4石3斗9升及社領4反9畝を寄進された」とまとめられている。明治元年、土浦町の鎮守となり、明治6年、郷社に列格した。大正2年7月10日、常名村の羽黒神社を合祀した。
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そのうちに「菅生天満宮」と呼ばれるようになり、江戸時代には天神の方が主祭神とされるようになった。明治5年に郷社に列格した。
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江戸時代の慶長12年、郡上藩主遠藤慶隆によって5保内の総社として社殿が再興され、以後領主や藩主から篤く崇敬された。明治6年、社名を「九頭宮」から「上沢神社」へ改め、更に翌7年、現社名「戸隠神社」に改称、昭和15年に郷社に列格した。
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治承年間に相殿4神を配祀した。明治9年に村社、明治15年に郷社に列格した。
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以降、千葉氏の保護を受けたが、千葉氏の衰えとともに当社も衰退した。明治6年10月に郷社に列格した。社殿の後方左側には、市指定の天然記念物の神木杉がある。
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天正12年、慶長3年の修復を経て、享保年間村山土佐守により社殿の修復が行われ、その後も後北条氏が社領15貫文、徳川幕府が朱印地12石を寄進するなど、歴代領主から厚く遇されている。明治6年郷社に列格した。因みに殿ヶ谷の地名は、村山党の居館があったことに由来するという。
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江戸時代には「天満宮」と呼ばれていた。昭和6年2月郷社に列格した。
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明治元年、関東へ下降する有栖川宮熾仁親王が当社で休憩し、その際、「神仏習合に基づいた「山王」の社名は新政府の神仏分離の方針にふさわしくない」と言ったことから、社名を旧地名の武蔵国稲毛庄にちなんで「川崎大神稲毛神社」とし、明治中頃に「稲毛神社」の名が定着した。明治6年、郷社に列格した。昭和41年、神社本庁の別表神社に加列された。
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