還俗
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享保9年、30歳のころ還俗して大坂に移り浄瑠璃作者となった。なぜ還俗して浄瑠璃作者になったのか、その経緯についても不明である。通称を松屋宗輔と称したが、この「松屋」とは大坂に移った際に入った養子先の屋号ではないかという。
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といって、この土地で、二人一つ屋根の下にくっつきあっていては、私もさすがにきまりが悪い。あんたも、その年で還俗となると、あまり見ばのいいもんじゃなかろう。
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この経文の暗唱が終われば無事黄衣を着ることを許されサンガに入るのである。僧はいつでも還俗することができ、その意思が妨げられることはない。還俗すると決めた場合、まず住職と両親にまずその意思を告げ、さらに法を教わった教師の僧に敬意を示し、花を送る。
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いつの日かかならず還俗し、おれは絵描きとして名を成すつもりなんだ。小さいころから三度の飯より絵を描くのが好きだった。
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親が巴流の直門だから、出家以前にはこのひとも茶の湯は仕込まれている。何があったか知らないが、そろそろ還俗してもよいのではないか。こういうひとが巴流の長になれば、とかく金銭や権力がらみのごたごたで淀んだ印象のある茶道界に一陣の清涼な風が吹くであろう、というのが哲哉が〈大原のばあさん〉と呼ぶところの大先生のご意見らしい。
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しかるに応永三十五年の正月、前将軍義持が死に、その翌年、弟の義教が六代の将軍職についた。義教はそれまで義円といって青蓮院門跡であったが、還俗したのである。世阿弥の心には暗い翳がよぎった。
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そしてこれはと思うと、猛烈な勢いで跳躍する。僧として修行中、朱子学に感動して還俗したというのが跳躍の一つだった。また儒者としても、他の儒者たちが、基礎教育である小学をないがしろにする傾向があることについて、「くそマヌケのド阿呆の半端学者ども」という感じで批判していた。
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僧侶や見習い僧らが講堂の板の間で食べたあと、私のような俗人がそこより一段低い板の間で、座卓を囲み残り物をいただく。渋井さんも、還俗したいまは、上座部仏教の世界では俗人の一人である。焼いた川魚、目玉焼き、ヘチマと鶏肉の煮物、豚肉の入った野菜炒め、竹の子のココナッツ・ミルク煮など、品数も量もふんだんにあるおかずを、粘り気のあるカンボジア米にかけて、ゆっくりと食する。
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自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。日本では、律令「僧尼令」における刑罰の一つでもあった。
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女房の首には大きな傷跡があり、果たして以前殺そうとした少女その人であった。湛慶は因縁の深さに心を打たれ、還俗してその女房と夫婦になったという。なお、『玉葉』仁安3年3月14日条にも筆者である九条兼実が藤原長光から聞いた話としてほぼ同様の話が記されている。
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男子に恵まれず、弟・友親の子と伝えられる友季を養子とするが早世、次いで舜季二男で外孫の春季を友季と改名させ養子に迎え8代当主とし、自らは出家し洪廓・鉄船庵と名乗った。しかし、夭折したため還俗し、堯季と改名したうえで9代当主となった。
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両親は「それではあらためて明朝、供養を受けて頂きたい」と彼を招待した。そして両親は「在家としても修行できるではないか」と強く還俗を勧めた。
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おれァ、あの相撲が好きよ、ほら、捨衣ってやつ、名前がおもしれえじゃねえか。もと坊主だったやつが還俗して相撲取りンなったんで捨衣ってんだよ。出足の早えやつよ、なァ。
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元親から何度となく還俗を促されたが応じることはなく、生涯僧として通した。関ヶ原の戦い後の領国没収の際には、一領具足たちに浦戸城下へ集住して徹底抗戦を呼びかけるなど、硬骨漢であったとされる。
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寛正六年十一月、富子は玉のような男児を産んだ。義政の弟、義視が還俗して養嗣子に迎えられて、ちょうど一年目である。義政は進退きわまった。
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もとある寺の僧であった男が、還俗してこの後家と一緒に暮らすようになった。後家にはお吉というひとり娘がいたが、人なみすぐれて美しかったので、男は後家の目を盗んでしきりに言い寄った。
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そして、842年10月に会昌の廃仏がはじまり、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った。なおこの際に強制的に還俗させられており、再度剃髪したのは帰国直前である。当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。
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