貨車航送能力
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しかし貨車航送能力に余裕はできず、本船は車両渡船へ改造となり、この計画は実現しなかった。しかし1966年8月の集中豪雨による東北本線、奥羽本線不通時の、檜山丸によるトラック航送実現には、この時の調査研究が役立った。
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これに不満を持った進駐軍は、1945年12月24日、貸与したLSTを車両渡船に改造するよう命令し、1946年3月31日から2隻のLST改造車両渡船による貨車航送が開始された。しかし期待通りの結果は得られず、青函航路の貨車航送能力は低迷したままで、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなった。車載客船全4隻喪失による旅客輸送力不足も深刻で、多くの傭船や他航路の連絡船を使用していたが、青森桟橋で沈座し、修復中であった第八青函丸では、旅客輸送力増強への即応対策として、船橋楼甲板の本来の甲板室の前後に木造の旅客用甲板室を造設し、客載車両渡船として1946年5月、復帰した。
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北見丸は、運輸省鉄道総局ならびに日本国有鉄道が青函航路で運航した車両渡船で、姉妹船には日高丸があった。両船は太平洋戦争末期に壊滅的被害を受けた青函航路の貨車航送能力回復のため、GHQの許可を1946年7月に得て建造された。
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しかし、第七青函丸以外は指定期間に長短はあったものの「進駐軍専用船」に指定されてしまい、日本人旅客の利用はできなくなってしまった。また当時の車両渡船は、新造船も含め、全て戦時標準船で劣悪な船質のうえ、十分な補修もされず酷使され続けたことで、故障や事故が頻発し、貨車航送能力は一向に回復しなかった。このため、それまでは新造船の新規着工を許可しなかったGHQが、1946年7月に至り、運輸省鉄道総局の建造申請に対し、青函航路用として車載客船4隻、車両渡船4隻、計8隻という大量の連絡船建造の許可を出した。
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このような状況下、1946年9月までに、当時就航中あるいは建造中であった車両渡船 第八青函丸、第十一青函丸、第十二青函丸、石狩丸の船橋楼甲板に旅客用甲板室を造設して客載車両渡船とし、旅客輸送力増強を図ったが、いずれも「進駐軍専用船」に指定され、一般旅客の利用は禁止されてしまった。また当時の車両渡船は、新造船も含め、全て戦時標準船で劣悪な船質のうえ、船腹不足のため十分な補修もされず酷使され続けたため、故障や事故が頻発し、一向に貨車航送能力も回復しなかった。このことが、北海道に進駐するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年7月、運輸省鉄道総局はGHQより、青函航路用として、車載客船4隻、車両渡船4隻の計8隻の建造許可を取り付けることに成功した。
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しかし、終戦後、生き残った2隻の車両渡船は、まず第七青函丸が 1945年8月30日、函館港北防波堤に衝突して入渠休航となり、その復帰した同年11月28日に、今度は第八青函丸が青森第1岸壁で、ヒーリング操作不調でその場に沈座してしまい、長期の休航となってしまった。この間、終戦時にはほぼ完成していた第十一青函丸が、1945年10月9日就航したものの、貨車航送能力不足は歴然としていた。これに不満を持った進駐軍は、1945年12月24日、貸与したLSTを車両渡船に改造するよう命令し、1946年3月31日から2隻のLST改造車両渡船による貨車航送が開始された。
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第二青函丸は、鉄道省青函航路の鉄道連絡船で、鉄道車両航送専用の車両渡船で、先に就航していた第一青函丸の改良型であった。貨車積載能力の大きい第一青函丸就航により、青函航路の貨車航送能力は増強されたが、それにつれて貨車航送の需要も増加していった。しかし、第一青函丸ではタービントラブルが多発し、いったん休航すると、その積載能力が大きいだけに影響は甚大であった。
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これにより、当時は未だ陸上設備改良待ちではあったが、津軽丸型1隻入渠中も、残る6隻での15往復運航可能な隻数は確保され、船脚の遅い車載客船 十和田丸は余剰となった。このため十和田丸を石狩丸と改称のうえ、不足する貨車航送能力増強のため車両渡船に改造し、1967年5月に再就航させた。この年度の貨物輸送量は695万トン に達していた。
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洞爺丸以外の4隻は貨車航送能力の大きい車両渡船であったため、青函航路の貨車航送能力は激減し、滞貨の山ができてしまった。沈没した5隻の潜水調査が1954年10月に行われたが、船体が3つに破断していた第十一青函丸以外の4隻については、当初は浮揚後、復旧再使用の見込みであった。
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その後、続行船の就航はあったものの、船質の劣悪さに変わりはなく、依然船腹不足で、それらを整備不良のまま酷使せざるを得ず、事故や故障が頻発し、稼働率は低迷を極める、という悪循環で、一向に貨車航送能力は回復しなかった。しかし、これは、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年7月、GHQ は青函航路用として車載客船4隻、車両渡船4隻の建造を許可した。
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追加建造の津軽丸型第7船が十和田丸の船名を継承していたため、同年10月21日、石狩丸と改称のうえ、青函航路の逼迫した貨車航送能力増強のため、同年10月12日の理事会で車両渡船への改造が正式決定され、同年11月1日着工となった。函館ドックでの半年間の改造工事を終え、1967年5月6日再就航した。
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しかし、十和田丸は、旅客定員は多いが船足が遅く、貨車航送能力もワム18両と少ないため、旅客便としても貨物便としても使いづらく、同ダイヤ改正以後は1日1往復のみの運航となっていた。そこで十和田丸を1966年秋でいったん係船し、それまでに客貨とも輸送能力の高い津軽丸型をもう1隻追加建造することが1965年10月22日の常務会で決定され、11月15日 その建造が浦賀重工へ発注され、翌1966年2月15日起工、10月16日竣工した。
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洞爺丸事件後、安全性確保のため、旅客設備は撤去され、車両渡船として1965年9月まで運航された。また、戦後1946年7月、青函航路の貨車航送能力回復のため、運輸省鉄道総局がGHQの許可を得て、石狩丸の基本設計を引き継ぎながら、旅客設備のない車両渡船として建造したのが、十勝丸と渡島丸であった。十勝丸は洞爺丸台風で沈没しながらも、浮揚後、修復、再就航し、1970年3月、青函航路最後の石炭焚き蒸気タービン船として勇退した。
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片道6時間運航による1日1往復半の運航は可能ではあったが、隔日ごとの運航ダイヤ逆転による貨車航送能力の波動発生回避もあり、車両渡船が本船1隻の間は、1日1往復の運航に留まっていた。同性能の第二青函丸就航後、1930年10月から、これら2船で3往復運航のダイヤが組まれたが、不況のためほどなく減便となった。
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沈没した5隻の潜水調査が1954年10月に行われたが、船体が3つに破断していた第十一青函丸以外の4隻については、当初は浮揚後、復旧再使用の見込みであった。しかし、復旧再使用するにしても、翌1955年の秋冬繁忙期までの再就航は到底望めず、それまでに貨車航送能力の相当程度の回復を図るため、同年12月頃、国鉄はとりあえず車両渡船2隻新造の方針を固め、1955年2月5日、新三菱重工神戸造船所と浦賀船渠へ1隻ずつ建造を発注した。これが、檜山丸と空知丸で、檜山丸が4日早く竣工し、第1船となったため、この2隻は檜山丸型と呼ばれた。
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しかし、戦災で著しく落ち込んだまま一向に回復しない青函航路の貨車航送能力は、北海道に進駐するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年7月に至り、青函連絡船では、 車載客船4隻、車両渡船4隻の建造計画が許可された。この車両渡船4隻のうち、2隻がW型戦時標準船の基本設計をほぼそのまま引き継ぎ、戦時中からW型戦時標準船を連続建造していた浦賀船渠で建造された。
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