謹厳実直
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名詞
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私が正体不明の異国の男だということで御心配があるかもしれませんが、私はいやしくも正規の宣教師の資格をもつモノカミ教のパードレです。御覧の通り、謹厳実直を絵に描いたような男で、絶対に間違いなどは起こしません。
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人間なんてものは、謹厳実直とみえたじいさんにこれがいるんだよ。
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七三にきちっと分けた髪に、黒縁の眼鏡。謹厳実直を絵に描いたような人物である。
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そして、若い店員たちが話題にしているような、寺沢の〝行為〟が事実であったとしても、別に不自然なことではないだろう、と、浦上は自分の中でつぶやいていた。たとえば、謹厳実直と評される人間にも、社会で見せる顔とは全く逆な一面が、あるはずだ。寺沢が休息日の午後、それこそサンダル履きで、ハンバーガーショップへやってきて、会社とか、家族の前では見せたことのないいやらしい目をしていたとしても、それ自体は、責められることではあるまい。
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定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった。定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁、塙保己一、林述斎らと深く交流した。
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子供のないせいか、いつまでも新婚みたいに若やいだ家庭を、八千代もよく知っている。「謹厳実直はよかった」 はる子は屈託のない笑い声を途中で止めた。「あら、ラビイはどこへ行ったのかしら」 ラビイ、ラビイと呼び立てる声にも、子犬はなかなか現れない。
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定信も若いころは吉原へ通い、今は情人のような顔をしてちゃっかり茶屋遊びをする。謹厳実直で書物蔵が羽織を着ているよう、という見かけや世間の噂より、実際は意外に、狸なのだろう。艶やかな芸者から酌を受けながら、倩一郎は口のなかで家康のお墨付き、滝川一益、蚯蚓御用、吉宗、大岡越前と呟き、そして米造の傷顔とお葉の白い瓜実顔を思い浮かべて、背中に走った悪寒を、肩をすくめてやり過ごす。
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武藤の顔は赤い。常には謹厳実直を絵に描いたような男が、珍しく上機嫌で、すっかりできあがっているのが分かる。村を練り歩く間に振舞酒を相当に飲んだのだろう。
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ひとりは大松という男で、こちらは腕力のありそうな筋骨隆々の大男。もうひとりは、謹厳実直に服を着せたような中肉中背の男で、名前を中園といった。大松と中園は『御神本探偵事務所』に所属する探偵の中でも特に成績優秀な二人である、と所長の御神本は誇らしげに胸を張った。
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変にあきらめがよくて、いつものように自宅でゴロゴロしていたり、今日がおしまいという時まで、ケロリとした顔で会社へ出かける連中もいたが、大半は泣き喚き、狂乱の限りを尽していた。謹厳実直を売り物にしていた人々に限って、もうこれでおわりだと判ると、ひどい行動に出た。
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たとえば今度一緒にこっちへやってきた長年にわたるつきあいの同僚だが、この男はおよそ女性にまつわる噂と無縁な人間で、謹厳実直とまではいわないが、道楽といえば夜の一杯くらいで、それも女の侍るバークラブの類いに通うということもない。その男がニューヨークヘ着いたその日、「ちょっと出かけてくるから」と言うので、「どこへ」としつこく聞くと、「ブロードウェイあたりへ」と答える。
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ボーンズ、正直に告白しよう。わたしは全くの謹厳実直居士だったんだ。だからこそ、フィネガンが面白がったんだな。
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顎のしゃくれた、鼻の高い古風なマスクで、立役から老役、敵役、老女形、舞踊と何でもこなし、上方と江戸歌舞伎にも通じる器用さを持ち合わせていた。豪放で艶福家の父と違い、線は細く声もかすれ気味であり私生活も謹厳実直であまり重い役を与えられることがなかったがそれでも文句ひとつ言わずにきちんと演じていた。温厚で宙乗りの際裏方がミスをしても叱ることなく「あかんやないか」と優しく注意するだけで平然していた。
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十五歳で前漢の高祖の臣下となった石奮は、比類のない謹厳実直さで皇帝と朝廷に仕えたことで知られる人物である。そしてその長男であった石建も、父親にひけを取らないほどに誠実かつ真面目な人物であったらしい。
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実子に大坂で活躍した初代市川右團次と、明治に活躍した五代目市川小團次、養子には明治の名優初代市川左團次と初代市川荒次郎がいる。性格は謹厳実直で、質素な服装を通し、道行く誰にでもきちんと被っていた笠を脱いで挨拶をした。楽屋でも渋面をして布団も敷かずに正座しつづけており、実子の行儀が悪いと横面を張り飛ばしたというほどであった。
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秘書を便利屋ぐらいに思っている連中には、シャアのこの反応は謹厳実直すぎて、気に入られない。シャアを乗せたランチは、慣例の検問と入国審査を受けたが、シャアたちは、地球連邦政府発行のVIPのパスポートのおかげで、何の嫌疑も受けずに、ロンデニオンのロンド・ベル部隊の桟橋にそったベルト・ウェーに乗ることができた。
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桜田門外の変後の万延元年6月14日に父の忠央が失脚し、強制隠居処分となったことを受けて翌15日に家督を継ぎ、従五位下大炊頭に叙任され、附家老として紀州藩主・徳川茂承を補佐した。策謀家・専制的であった父とは違って謹厳実直であり、活発で度量も広かったため、周囲から人望を集めたと言われている。慶応2年、第二次長州征伐では幕府軍の先鋒を務め、各地で幕府軍が敗れる中で、忠幹が率いる軍勢だけは安芸国佐伯郡大野村まで進撃するという大戦果を挙げた。
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