行雲流水
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名詞
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しかも言説、行為をなした当人は、悪執拗い努力や作為は一つもなく、ただ力が入っている。力が入っていながら行雲流水のような自由で自然の態度を備えている。これは、まあ私たち凡人にとっては理想の話ですが、一片の信念、信仰を懐くものは、いつとはなしに本然の生き抜く力が体験中に拡大強化されて行って、昔の自分と比較するとき、思わず驚くほどになるものです。
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これがカモカのおっちゃんだと、動かぬ心をむりにふるい立たせ、意地きたなくむしゃぶりつくところ。すべて人は行雲流水で公衆ベッドを利用できるように修養せずばなるまい。女も、もちかけられて内心はうれしいくせに、沙汰のかぎり、などと、まなじりを決して一一〇番をよぶ、という偽善精神はあかんよ。
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幼少の頃から内向的で、空想と現実の間をさまようボーっとした子供だった。行雲流水 空をゆく雲と川を流れる水のように、執着することなく物に応じ、事に従って行動すること。なんなんだかな 最近は全然平気で出ております。
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以後元禄七年十月十二日、芭蕉が旅先の大坂で没するまで、諸所で芭蕉に随伴した。物に執着せず、行雲流水の生活で奇行が多かったが、芭蕉に愛された。句も人柄そのまま軽妙洒脱で、芭蕉没後さかんに口語調や無季句も試みた。
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男はたしかに凡夫にすぎない。ソノ子のお尻の行雲流水の境地には比すべくもないのである。水もとまらず、影も宿らず、そのお尻は醇乎としてお尻そのものであり、明鏡止水とは、又、これである。
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その先にあるのは黒髪の乙女とともに歩む薔薇色のキャンパスライフである。我ながら一点の曇りもない計画で、じつに行雲流水のごとく、その展開は見事なまでに自然だ。
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本堂にひきとって飾っておくぶんには、ほッたらかしておいても、誰にも分らない。そのうちに、ソノ子が行雲流水から戻ってきたから、本堂へよんだ。
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「四郎馬鹿さんに見舞われた店は、どうも繁昌するようだ」 それには多分に迷信性と流行性があったかも知れない。しかし少年の一点の僻みも屈託もない顔つきと行雲流水のような行動とは人々の心に何か気分を転換させ、生活に張気を起させる容易なものがあったらしい。マスコットというものはそうしたものである。
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「このさきは行雲流水、風月を友にして諸国を歩くさ」 これも、本心である。巨大な事業慾ほど、巨大な厭世感がつきまとうものだ。
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行雲流水の身となられたのじゃ。
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そのままで宇宙の中にところをえている。われわれ自由意志をもっているものが、そういうような生活になれば、それでいいのだということを申しましたが、一枚の生活というと「行雲流水」雲水、雲や水のように私がなったわけであります。雲水というものは、雲水のように生活をしないで、どんな生活をしても、雲水のようになっているわけであります。
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なるようになれではいけないが、なるようにしかならない世の中である。行雲流水の身の上だ、私は雲のように物事にこだわらないで、流れに随って行動しなければならない。去ろう、去ろう、川棚を去ろう。
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ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国と交渉をつけた以後の日本の開化は大分勝手が違います。もちろんどこの国だって隣づき合がある以上はその影響を受けるのがもちろんの事だから吾日本といえども昔からそう超然としてただ自分だけの活力で発展した訳ではない。
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朱実が常に想像している武蔵は、行雲流水の修行者であった。樹下石上の人だった。
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行雲流水、心動くときは動かし、動かざれば動かしたまわず、と古い本には感心して書いてある。一休というのは非常に正直な人であったように私には思える。
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しいて言葉にすればそうなる。海の上の行雲流水ですが。これがなかなかよろしくてね。
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概ね雲水などというものは、至極わりきれない精神や、肉体を袈裟につゝんで諸方をハイカイするにすぎないようなものであるが、ソノ子の場合はそのような不明快なものではない。すべてはハッキリとわりきれており、要するに、お尻というものが天下を行雲流水しているだけのことである。まことに明快と云わねばならぬ。
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