草絵
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和紙を切り台紙に貼って作り上げる日本画『草絵』を創始した。以後、NHK学園も含め各地で教室を持ち、世界でも草絵を教え個展を開催。
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こうして草絵が誕生した。草絵は草木染めの、糊で貼り付けた際に捲れにくい手漉きの和紙を使う。台紙に下絵を描かず、切った和紙を自在に貼り付ける。
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隆古には殊に傾倒していたと見えて、隆古の筆意は晩年の作にまで現れていた。いわゆる浅草絵の奔放遒勁なる筆力は椿年よりはむしろ隆古から得たのであろう。が、師伝よりは覚猷、蕪村、大雅、巣兆等の豪放洒落な画風を学んで得る処が多かったのは一見直ちに認められる。
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草絵は、下絵を描かずに、切った和紙を台紙に貼り付けて創る日本画のこと。尼僧で画家の妣田圭子が始めた技法で、書道の草書のような躍動感、簡略化された美を追求する絵画のため、愛好家が多い。
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「草絵は少々はみ出していても、足りなくても、個性や自分というものの命があふれているようなもの」としている。
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妣田を師と呼ぶ作曲家渡辺俊幸によると、妣田は真言密教の虚空蔵求聞持法という修行で驚異的な記憶力と超人的な速さの習得力を身に付け、600巻の大般若経も見ずに写経するという。そんな妣田だが、生活すべて自然体で、草絵の創作も意の向くまま深夜でも着手。「作品を一生懸命作りだしたら、食べるのも忘れるじゃない」と言って食事時間も拘らず、野菜中心で咀嚼に留意する程度。
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こうして草絵が誕生した。草絵は草木染めの、糊で貼り付けた際に捲れにくい手漉きの和紙を使う。
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その理由は「今の世の中はそつなく、水準をちょっとでも超えてやれる人が褒められる」ためといい、「でも草絵は少々はみ出していても、足りなくても、個性や自分というものの命があふれているようなものであってほしい」から。
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そして別の日、空の雲が象や竜のような姿に見えたことを機に、和紙の切れ端を自分の意の向くままの形に置いてみた。これが、草絵の始まりだった。半年後、屏風を作った際に和紙の散らばった件を思い出し、和紙を屏風に散りばめた。
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こういう人々とつき合いながら、私は横浜で三年ほども過したのです。吟香さんはそのころの私たちを、「絵草絵の中の何とか」とか、「錦絵の中の何とか」とか形容してくれて、これはほんとうに冷汗ものですが、意味はちがうでしょうが、私自身も当時をふりかえると、まるで絵の中で暮していたようなふしぎな感じがします。そもそも、絵草紙店というものが美しい。
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が、素人眼には下手で小汚なかったから、自然粗末に扱われて今日残ってるものは極めて稀である。椿岳歿後、下岡蓮杖が浅草絵の名を継いで泥画を描いていたが、蓮杖のは椿岳の真似をしたばかりで椿岳の洒脱と筆力とを欠き、同じ浅草絵でも椿岳のとは似て非なるものであった。が、その蓮杖も二、三年前故人となって、浅草絵の名は今では全く絶えてしまった。
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「規則正しく寝るなんて言っているようじゃ、人間の生活じゃないの」と述べ、「食べたいときに食べ、眠くなったら寝、少しでも時間があったら勉強をして生き生きと生きること」が健康法。草絵だけでなく、常磐津節や邦楽にも造詣が深く、舞踊家として大阪産経会館で創作舞踊リサイタルを開いたり宮内庁で舞楽を舞ったりした。外国にも多くのファンを持ち、カーネギーホールで舞踊リサイタルを開くなど国際的に活動。
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和紙を切り台紙に貼って作り上げる日本画『草絵』を創始した。以後、NHK学園も含め各地で教室を持ち、世界でも草絵を教え個展を開催。
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妣田から草絵を教わった日刊新聞『秋田魁新報』の人見誠治社長夫人の人見琴は、草絵の魅力について「草書のように形が極端に省略」され、「自然の色を使うため、色同士がケンカしない」渋さと調和と表現。
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妣田 圭子は、日本の芸術家。日本画「草絵」の創始者。本名は梶本 喜久代。
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