禁中並公家

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  • 元和元年9月9日、禁中並公家諸法度を制定して、朝幕関係を規定した。
  • また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。
  • これは関白及び禁中並公家諸法度を利用して朝廷の統制を図ろうしていた江戸幕府を強く刺激した。
  • 他方、幕府は朝廷の影響力を抑えるため、禁中並公家諸法度を定めた。
  • 禁中並公家諸法度の編纂にも加わり、その正本は唯心によると言われている。
  • だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府そのものの尊厳を傷つけるものとして拒絶してくる事は目に見えて明らかであった。
  • 江戸時代は264年間に渡って続いたが、幕府は朝廷を禁中並公家諸法度などにより統制した。
  • しかも、ここで上げた数字の中には禁中並公家諸法度によって定員外とされた武家官位に基づく叙位が含まれていない。
  • 続いて、地下官人制度の再編成を行っており、禁中並公家諸法度もその流れの一環として位置づけられる。
  • 貴族階層に対しては幕府から禁中並公家諸法度が制定され、公家社会は幕府の統制を受けるようになった。
  • 大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。
  • 江戸時代の関白職は豊臣家滅亡後に制定された禁中並公家諸法度にて幕府の推薦を経ることが原則とされ、天皇第一の臣にして公家の最高位たる関白職は実質的に幕府の支配下にあったといっても過言ではない。
  • しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならない事に対しても天皇は不満を抱いた。
  • 徳川家康の禁中並公家諸法度制定の背景の一つは、この宮中座次の紛争に終止符を打つ目的だった。
  • この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。
  • 特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。
  • 江戸時代に入ると公家らは御所周辺に集められ、公家社会は幕府から保護を受けることとなったが、反面、天皇と公家を規制する禁中並公家諸法度が定められ、これにより江戸時代の公武関係が規定された。
  • 禁中並公家諸法度は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた。
  • 江戸時代初期の禁中並公家諸法度よりその萌芽は見られるが、それを理論化したのは14歳で将軍に就いた徳川家斉を補佐する老中・松平定信であったとされている。
  • 豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。
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