神津朝夫
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山上宗二が著書『山上宗二記』に「古今唐物を集、名物之御厳り全く数寄人は、大名茶湯と云也」と記したように、こうした唐物を鑑賞する茶会は大名茶湯と呼ばれ、現代の茶道に繋がるわび茶とは別の系統となって発展した。やがて大名は名物飾りの茶会を催して権力を誇示するようになるが、神津朝夫は、信長はこうした茶会を松永久秀を真似たのだろうとしている。
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晩年に京都三条柳水町に移り、文亀2年5月15日、80歳で死去。茶道史研究者の神津朝夫は、足利義政将軍など貴人との関わりでの珠光の茶道創始説を否定した。応仁の乱以前に成立したとされる『おようのあま』という物語、及びその絵巻に描かれた、主人公の老尼が遁世の法師を訪ねた時にお茶をもてなされた様子に、同じく遁世者だった珠光の茶の湯は似ていて、珠光も奈良へ帰還したときには田地の中の庵で同様の生活を送り、訪問者には茶を点てて、もてなしていたと推定される。
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わび・さびの由来である言葉「侘び」「寂び」も歌道由来の言葉、概念であり、これらを茶道の思想に持ち込んだのは村田珠光だとも言われるが、桑田は紹鴎が歌人でもあったことから、わびさびの概念を産み出したのは紹鴎ではないか、と推定している。他方、神津朝夫は、『山上宗二記』の記述を元に、紹鷗の茶の湯は「わび茶」と呼ぶにはほど遠かったと指摘している。紹鷗は「茶の湯は正風体の盛りに死去」したと記されている他、紹鷗の茶室は、黒漆塗りの縁がつく張付壁であったこと、名物茶道具を60種も所持していたこと、などを理由としてあげている。
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