発起人
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アメリカ犯罪学会国際犯罪学部門最優秀図書賞、アメリカ法社会学会国際学術賞受賞。日本での法科大学院制度の採用を強く唱えていた発起人ともなる人物。「宮沢節夫」とは別人。
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半分は説明であり、でもインタビュアーが思わぬ質問を発したときには、なるほど、それはどうなんだろうと、説明を超えて老人力の論究となる。でもやはりこちらが発起人である関係上、やはり説明となる場合が多いか。しかし説明といっても、しゃべる以上はいろいろに新しくしないと面白くないのだけど、この間あるインタビューに答えながら、 「老人力というのは、ある意味、田舎の力ということです」 と発言して、あ、これはいいな、と思った。
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青鞜に載せた「独立するに就て両親に」を、木下杢太郎は称賛したが、徳田秋江らはののしった。創刊時の5人の発起人のうち、最後まで残っていた保持が4月に去った。この年は生田花世が多くの文を書いたが、世帯を持った平塚が多忙だったことにより9月号を出せなかった。
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ロバート・ベーデン=パウエルと彼ら4人の設立者のうちフリーメイソンであったことが確認されているのはウィリアム・ディクソン・ボイス、ダニエル・カーター・ビアード、ジェームス・E・ウェスト の3人である。BSAの設立発起人となったボイスの他3人は設立時の役員に就任した。
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古代アメリカ学会の前身である古代アメリカ研究会の設立発起人の一人。
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この紅葉館でも、当時自分を窮地に追い込んだ谷干城と喜んで同席している。発起人たちも、伊藤はそういう人間だと、自然に思っていたのだろう。福沢諭吉が、当初は出席予定であった。
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同年12月28日に会社設立が認められ社名を東京馬車鉄道株式会社とし、資本金が30万円、東京市京橋区三十間堀三丁目6番地に仮の本社を置いた。開業に当たって発起人陣営が一番苦心したのは本社地の選定であった。予定とする馬180頭と馬車30両を収容可能な車庫兼厩舎を拵える土地を用立てるのは容易でなかった。
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この目的の変更は筆頭発起人の阿部貞助の影響があるとみられている。阿部貞助は個人で砂利運搬を目的とした専用鉄道の免許を得ているが、多摩鉄道設立に参画することにより砂利輸送の役割を負わせたとみられている。
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ここではと呼ぶ。ウィレム1世が発起人であり、彼とその家族が株式の大部分を保有した。この会社は旧教会領や工業会社のデベロッパーとして大掛かりな抵当貸付を営む一方、政府銀行家として国債を発行したり、中央銀行として発券したり貯蓄銀行の資金を預かったりした。
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ホープ商会は、2世紀半にわたり活躍した、オランダの有名な銀行である。発起人はスコットランド人であるが、同行はアムステルダムに開業した。
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母屋は、そのころに建てられたというから、古格があるはずである。この金湯社の十名の発起人の中に、先代の祖父がいて、後に経営権を握った。明治四十四年二代目が承継の折、「霧積温泉金湯館」と〝社名変更〟した。
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その名残はどこにも見られない。その記憶が私にあったからこそ発起人を二つ返事で引き受けたのだ。二十年という歳月は人を変える。
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飯島は加賀の出産当日に亡くなった娘と同じ1972年生まれという共通点もあって「私もあなたのお母さんになる」というつもりで交流が始まったという。飯島の死後に行われたお別れ会では発起人の一人として名前を連ねた。父・四郎は大映のプロデューサー。
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とりあえず、遊び人と思われないのが、必要だったろう。また、図書館設立のような場合、自分が発起人になっては効果がないとも書いている。功績を残そうとしていると思われては、うまくいかないこともあると。
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流石に短刀や仕込杖などは、講中の例に傚って携帯しませんが、幸に何等の異変もなく明治の末年まで登山を続けて、初めて都会の文化式登山の人達と接触したので、山に登る人などはあるまいと思っていたのに、意外に多くの山好きがあることを知って驚きました。その人達が日本山岳会の発起人並びに初期の会員の幾人かであります。此服装で最も困ったのは山で暴風雨に遭った時で、傘などはさせないから茣蓙と一緒に丸めて腰にさし、油紙をしっかりと体に纏い付けて風雨を凌ぐ、これより外に方法がありません。
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私は「ヒッチコック・マガジン」の編集長だった中原弓彦氏の紹介で知り合った。その翌年の私の出版記念会には、発起人のひとりになってくれた。そのうち、山川さんはショートショートをつづけて書きはじめ、本にまとまった。
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その銘酒屋街を芸妓の花街に転身したのは明治45年のことである。花街の発起人となったのが酒屋兼居酒屋を経営する秋本鉄五郎であった。秋本は指ヶ谷に花街設立と私娼、無頼の徒を掃討する目的で明治41年から6年にかけて警視庁に指定地許可を数回出願し、政治家の大井玄洞、鳩山和夫の助けを借りて6年目の明治45年6月、ようやく正式に許可が下りた。
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