畢生の大作

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  • 三島の畢生の大作『豊饒の海』これと同名の月の海は、その名の華麗さに似ず、死の海であり、廃墟の世界である。
  • 畢生の大作となるべき『死せる魂』をゴーゴリに書かせた根底に、一種の理想主義があったことは確かであるが、それはロシアの体制それ自体の変革を志向するものでなく、第一部で主人公の過ちを、第二部でその矯正を描くことによって、ロシア民衆を道徳的に目覚めさせ、古き良きロシアを再生させようとするものであった。
  • こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。
  • この天井画は弟子のドメニキーノ、グイド・レーニなどを動員して制作した畢生の大作であるが、この大仕事に対する報酬が予想外に低かったことから、カラッチはうつ病になり、これ以後の晩年は制作がふるわなかったと言われている。
  • その後、畢生の大作『金枝篇』を完成させるために半生を費やし、後の研究者に大きな影響を与えることとなる。
  • 父談の後を継いで太史令となり、畢生ひっせいの大作『史記』を起稿、李陵を弁護して宮刑に処せられたが、なお継続して百三十巻の大著を完成した。 中島敦『李陵・山月記』より引用
  • 久作畢生の大作『ドグラ・マグラ』が、今もなおさまざまな解釈が当てられて解説されるように、この『瓶詰の地獄』についてもまた、さまざまな解釈が可能である。
  • 近松半二を立作者とした畢生の大作で、潰れかけていた竹本座がこの作品のヒットで息を吹き返したという伝説を持ち、歌舞伎でも同じ明和8年に大坂小川座で初めて上演されている。
  • 部屋にいたリュサニアスとの対話を経て、彼は未完に終わった畢生の大作『アエネーイス』を焼く決意をする。
  • では、かりにかれをイタコにたとえるなら、この畢生の大作である『厖濃の柵』において呼び出そうとしていたのは、一体どういう存在であったのだろう。 長部日出『鬼が来た 棟方志功伝(下)』より引用
  • 数十年後にプーシキンの『エヴゲニー・オネーギン』に触発されて書いた畢生の大作『ヒーローのない叙事詩』でも、人生の最も幸福であったこの時期のことが回想されており、その第1章は「1913年」と題されている。
  • それを物語っているとおもわれるのが、帰国してから約一箇月後の、四月十九日から制作に取りかかって、文字通り志功の畢生の大作となった『厖濃の柵』である。 長部日出『鬼が来た 棟方志功伝(下)』より引用
  • 死を迎える1966年までの約20年にわたる沈黙の中で、『レクイエム』と同じく記憶の中で書き綴られたのが畢生の大作『ヒーローのない叙事詩』である。
  • いざ畢生ひつせいの大作をものせんと、はり切って毎度机に向うのであるが、ふしぎや、そうなると、あたまの中はモヤーッとかすみが掛ったごとくなって、執拗な睡魔におそわれる。 田辺聖子『女の長風呂 Ⅱ』より引用
  • ホフマンは1814年に完成したオペラ『ウンディーネ』こそ自身の畢生の大作と考えており、ベルリン時代にはこのオペラの上演に最も力を注ぎ、1816年8月にベルリン王立劇場で行なわれた同オペラの初演は大きな成功を収めた。
  • もちろん、かれらが畢生ひっせいの大作「洛中洛外図絵の打掛」も、奪い去られていた。 柴田錬三郎『岡っ引どぶ 巻三』より引用
  • 前後して書き上げられた『ドゥイノの悲歌』と並んでリルケ畢生の大作とされているが、悲嘆のトーンが強い『悲歌』に対して、本作はほぼ全編を通じ軽やかで肯定的な雰囲気が貫かれている。
  • ハウアー畢生の大作であるオペラ「黒い蜘蛛」は、彼の死後1966年になってようやくミヒャエル・ギーレンによりウィーンで初演された。
  • また日本画家富岡鉄斎の家蔵品コレクションでも知られ、畢生の大作『阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図』屏風一双を含む名品150点を所蔵している。