画竜点睛
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名詞
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彼による代表的な作品は、日本の大阪市立美術館蔵の「五星二十八宿神形図」などである。張僧繇は、以下に述べる「画竜点睛」という故事で知られる画家である。
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が、わしは天下に広くその名を知らしめ、必ずや後世にまで語りつがれるであろう芭蕉だ!その最後の画竜点睛ともいうべき辞世をなんびとたりとも汚すことを許してなるか!
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永らく書き綴ったこの物語も、この兄妹の対面をもって、完結させてもよさそうである。いや二人の兄妹の、晩年の事跡を語らなかったならば、画竜点睛とならないかもしれない。では兄妹はどうしたか?
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裏切られ、傷つけられ、どたん場まで追いつめられた女の、逆転の忍び笑いだったのかもしれなかった。画竜点睛をかく、とはよく言うが、雅彦の場合は、まさにそんな気持ちだったのではないだろうか。夏希と結婚式をあげ、入り婿となって、もう半年以上がすぎ、すっかり村山家のあるじに収まっているつもりだった雅彦は、そうしてまたその自信から、財産をあてに勝手なこともしていたのだが、夏希の本能的な深謀遠慮で籍が入っていなかったことを知らされた時、彼は畳をめくられたように蒼ざめ、怒り狂ってしまった。
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そうして読みながら、こんなに女から思われている色男は、いったい何者だろうかとの好奇心を、最後の一行が尽きて、名あての名が自分の目の前に現われるまで引きずっていった。ところがこの好奇心が遺憾なく満足されべき画竜点睛の名前までいよいよ読み進んだ時、自分は突然驚いた。名あてには重吉の姓と名がはっきり書いてあった。
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残った瞳のない2匹の龍は今も安楽寺に描かれたままである。このことから画竜点睛は最後の仕上げの重要さ、あるいはそれに値する物事を指す。しばしば画竜点睛を欠くと使われ、最後の仕上げがない、最後の詰めを欠くという意味である。
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殺されて発見されてこそ、特種のねうちがあるんだからな。だからおれが画竜点睛をしてやったというわけだ。
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署名は「下総・馬場」とある。この一冊は、私の構想の上に、正に画竜点睛であった。同時に私は、東海道を見たくなった。
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気が狂うほどの緊張を幸いに受けずとすんだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料り得ぬと云う方がむしろ適当かも知れぬ。それであればこそ、画竜点睛とも云うべき肝心の刹那の表情が、どう想像しても漠として眼の前に描き出せないのだろう。運命の擒縦を感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
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いずれも金ピカの大礼服をつけ、眉間に皺を寄せて無言のままに凝り固まっているようすというものは、さながら「政府の心配」とでも題した諷刺画のよう。西側の大きな窓から問題の有明荘の灯影が一つ二つ樹の間を通して仄見えるのは、この際背景としてまことに適切、まさに画竜点睛の趣きがあるのである。日ごろでさえも浮世の風があまり露骨には吹きつけぬ界隈。
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このように、市井の研究家には容易に専門情報にアクセスできない事への苛立ちがあり、部外の素人に辟易していたことを記事で婉曲に示していた福井のような人物とは意識の上で大きなすれ違いがあった。上記の諸点の他、数値資料に等に画竜点睛を欠いたとは言え、福井は膨大な記事を執筆していたことには注意が必要であろう。例えば、『世界の艦船』の編集長であった石渡幸二は世界の艦船創刊以降ほぼ毎号記事を書き続けていた堀の姿勢を評価している。
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しかし、そこまで居住性を考えていただいていて、一方で住居に手を抜くというのでは、画竜点睛を欠きます。優勢に進めてきた作戦なのに、最後に詰めをあまくしてしまうことになるのです。
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東洋における絵画が悟りの道であるといったような考えかたなどは、かかる考えかたにあたかも似ている。それは画竜点睛などという言葉があるように、竜の目を入れる日のためにあらゆる竜は描かれており、自分の生命の存在への「問い」が答えられた、高まった瞬間にこの竜の目を入れて、彼は自在の世界に移入しているのである。存在の最も高揚したその瞬間のためにこの絵画は用意されているのである。
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それを辛うじて補うものが、純血の導入であった。前川の三女との縁談は、橋本の出世の画竜点睛であると言えよう。しかもその点睛は、更にスケールの大きい地位と権力を約束するものである。
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各種の画題を描いたが、中でも仏教画を得意とした。以下に述べる「画竜点睛」の故事で知られる画家である。張僧繇は、金陵の安楽寺に4匹の白龍の絵を描いたが、龍に瞳を描かなかった。
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彼の言葉のなかで、すでにことわざとして定着していると考えられるものに、 「終わりよければすべてよし」 というのがある。いっぽうでは、 「はじめが肝心」 とも言うが、画竜点睛を欠いては何もならない。言っちゃナンだが、 「細工は流々仕上げを御ろうじろ」 ということもある。
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これはモロワも指摘していることであるが、例えば画家の世界では、大作に弟子の手を借りることは常識で、ラファエロ、ヴェロネーゼ、ダヴィド、アングルなどの驚くほどの多作ぶりにも、弟子たちの筆がずいぶん入っているし、またバルザックやスタンダールの傑作もその題材を他の作家に借りている例が多い。画竜点睛という言葉があるが、天才とはまさに、画竜に目を入れてただの画を生きた竜にする者の謂であって、こうしてみればデュマも、代作者の下絵を生かした天才としての名誉は少しも傷つくことはないであろう。この「小説工場」のパンフレットは当時争って読まれたが、デュマはこれに対して訴訟を起こし、結局ミルクールが訴訟に負けて、禁錮十五日の刑を宣告された。
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