甲斐庄氏
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名詞
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御弓町は1872年に町名を「本郷弓町」と改め、さらに1965年4月1日の住居表示で本郷の一部となって「弓町」の名はわずかに周囲のビル名などに名残を残すのみとなった。甲斐庄氏の後裔は明治時代には屋敷と土地を維持していたが、大正時代初めに別の人に屋敷と土地を譲渡した。新しい所有者は、古い屋敷を取り壊して木造の西洋館を建築した。
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甲斐庄氏は正房以後代々「喜右衛門」を名乗り、寛政の頃には知行4000石までに至っている。幕藩体制が瓦解した後、甲斐庄氏は姓を「楠」と改めたといわれる。御弓町は1872年に町名を「本郷弓町」と改め、さらに1965年4月1日の住居表示で本郷の一部となって「弓町」の名はわずかに周囲のビル名などに名残を残すのみとなった。
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甲斐庄氏は楠木正成末裔を自称した一族で、江戸時代に徳川光圀の推挙で9500石の旗本となった裕福な武士であった。父・正秀は甲斐庄氏の跡継ぎ養子となったものの、後に離縁となり別家を建てたという事情があり、その時の慰謝料で京都に広大な土地を購入した。楠音はその父の元で経済的に恵まれた少年時代を送った。
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別系統の同族に能登甲斐庄氏があり、甲斐庄駿河守家繁が能登畠山氏重臣として見える。河内国の畠山氏からの分家である能登畠山氏に、甲斐庄氏からも分家した一族が従っていたものと思われる。
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河内国では、楠木正成の子孫を称し、烏帽子形城主などをつとめた甲斐荘氏が、徳川家康に取り立てられて錦部郡5ヶ村を知行する旗本となり、堺の中浜に蔵屋敷を構えた。甲斐庄氏は河内国の知行地及び和泉国堺の蔵屋敷で紙幣を発行した。摂津国・和泉国の国境の町である堺では、豪商今井宗久の子宗薫が大坂の陣ののちに徳川家に代官として取り立てられることにより旗本となった。
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甲斐庄氏は楠木正成末裔を自称した一族で、江戸時代に徳川光圀の推挙で9500石の旗本となった裕福な武士であった。父・正秀は甲斐庄氏の跡継ぎ養子となったものの、後に離縁となり別家を建てたという事情があり、その時の慰謝料で京都に広大な土地を購入した。
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しかし文禄3年豊臣秀吉によって25石の寄進を受け、豊臣秀頼によって金堂や諸堂の修復などが行われた。江戸時代になると、塔頭槙本院の檀家であった江戸幕府の旗本甲斐庄氏などの支えにより、伽藍の維持に努めた。安永年間には30余りあった塔頭は慶応年間には12坊となり、明治時代となって廃仏毀釈が始まるとさらに減り、現在では本坊となった槙本院の他には中院を残すのみである。
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大坂の陣両陣に従軍し、河内国の地理に詳しいことから道案内をつとめたたり、事前に野武士の大坂城入城を阻止したりした。夏の陣では、水野勝成隊に属して戦功をあげ、関東より甲斐庄氏の出自の地の河内国錦部郡2000石と半ば放棄されていた烏帽子形城を賜い、旧知600石は収公される。だが後に烏帽子形城は廃城とされる。
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その後の当城は、特に使用されることなく放置された。甲斐庄氏は河内の錯乱により国を離れ、浜松で徳川家康に仕えたが、大坂の陣で甲斐庄正治の子正房が幕府方として河内の道案内を行ったことにより、甲斐庄氏は戦後加増されて旗本として再び故地である烏帽子形城に戻ってくることが出来たという。しかし、大規模なこの城を維持できずに元和3年に廃城処分にした。
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一方で『河州鳥帽子形八幡宮伝記写』では甲斐庄正保の四代前が烏帽子形城で誕生したとあり、城主かは不明だが甲斐庄氏が烏帽子形城に属する立場であった可能性は高いと思われる。実際に確認できる烏帽子形城主として弘治年間の碓井定純がいる。
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正房は1600年の関ヶ原の戦いや1614年の大坂の陣で武功を上げ、先祖の地である河内国に領地をもらって2000石を知行された。甲斐庄氏は正房以後代々「喜右衛門」を名乗り、寛政の頃には知行4000石までに至っている。幕藩体制が瓦解した後、甲斐庄氏は姓を「楠」と改めたといわれる。
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別系統の同族に能登甲斐庄氏があり、甲斐庄駿河守家繁が能登畠山氏重臣として見える。河内国の畠山氏からの分家である能登畠山氏に、甲斐庄氏からも分家した一族が従っていたものと思われる。
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甲斐庄氏は、日本の氏族の一つ。楠木正成の弟楠木正季の子孫が河内国錦部郡甲斐庄を領有し、甲斐庄を名乗ったことに由来する。
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義就は事実上の守護として南河内を支配し延徳2年に病死した後は、嫡男の畠山基家があとをついだ。明応2年、将軍足利義材や畠山政長が河内を攻めると、基家は誉田に籠城し、基家方の甲斐庄氏などが金胎寺城に入った。
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旗本甲斐庄氏3代目。甲斐庄正房の子。
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