犬童頼安

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  • これを聞きつけた義陽は、犬童頼安に軍勢を与えて出陣させた。 ...
  • 永禄11年、肥後国南部の戦国大名・相良氏の重臣である犬童頼安の子として誕生した。 ...
  • 秀吉の九州統一の際に相良家存続に奔走した深水宗方は、自身の後継の奉行としての犬童頼安の嫡子である犬童頼兄を指名したが一族の反対に遭い、頼兄と甥である深水頼蔵の二人を後継とした。 ...
  • また同年、島津義弘の陣に属して豊後国入りし、犬童頼安・犬童頼兄と共に坂無城の番を仰せつかった。 ...
  • 深水長智は一族に優れた者がいなかったため、犬童頼安の子・犬童頼兄を、相良家を取り仕切る奉行にしようとしたが、代々深水家が務める役目であるとして一族の竹下監物らに反対された。 ...
  • 天正9年に義陽が戦死すると、義陽の遺児・忠房を犬童頼安と擁立かつ補佐、また義陽の弟である相良頼貞が家督を奪わんと挙兵した際もこの問題の収拾に努めた。 ...
  • また、響野原の義陽が討たれた地は元々往還路で、その地が人馬に踏まれるのを危惧した犬童頼安が、土手を築かせ供養碑を建立した。 ...
  • 第12代当主為続の弟頼泰が長享元年に反乱を起こした際に、長泰の弟で、幼年故に助命された松千代丸の子の治頼は、長じて長唯に仕えて、八代岡の地頭となっていたが、これが天文14年に犬童頼安や宮原玄蕃らと共謀して謀反を起こした。 ...
  • 義陽の死後、重臣の深水長智、犬童頼安らが島津氏と交渉して嫡男忠房を補佐し、次男の長毎は出水において島津氏の人質となった。 ...
  • 天正9年には島津勢が大軍で水俣城を囲み、城主の犬童頼安が籠城したが、義陽は葦北郡を島津氏に割譲して降伏し水俣城から撤収した。 ...
  • そして亀千代は、四郎太郎を通称とし、島津氏の通字の一つである「忠」の字を贈られて「忠房」と名乗り、深水頼金・深水宗方・犬童頼安を奉行として、相良氏の第19代当主となった。 ...
  • その際、隆豊は主君・相良頼房や犬童頼安らと共に日向国の島津陣営にあったが、頼房始め相良の将全員が島津陣営を去ろうとする中、隆豊のみは義弘との主従の約束を違えないよう、自ら相良家の名代として島津家に仕え続ける決断をした。 ...
  • その後も義弘に従い、肥後攻めや豊後国攻めに従軍、天正15年の豊臣秀吉による九州平定の際は、菅迫城に入り番をしていた伊集院三河守、犬童頼安らを退却させるべく、小林衆50人を率いてこれを成し遂げ、且つその通路を塞いでいた敵を退け、三河守、頼安らを無事に生還させている。 ...
  • 翌日、日向国椎葉の那須兵部太夫、那須周防らの後援を得て獺野原にて相良勢と激突、当初は多良木衆を押し崩し優勢であったが、犬童頼安の率いる人吉衆に押され混戦となり、頼美は日向国へ逃亡、直政は蔵人及び180余名の者ともども戦死した。 ...
  • これに対し、犬童頼安の人吉衆は横瀬大王祀前に布陣して、深水惣左衛門の多良木衆、須恵、深田、木上の兵は、波志鹿倉に布陣した。 ...